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2012年7月12日木曜日

文教研れぽーと【紹介】

河合塾に、河合文化教育研究所(文教研)というものがあるのですが、そのサイトの中の
『2006年春の文教研れぽーと』で牧野剛先生が書かれた「進行する二極化現象―理解状況や成績をめぐってー」を非常に興味深く読ませていただきました。私たちが受験している当時からこういう傾向はあったような気がしますが、近年はそれがより見える形で顕在化してきたんでしょうね。
余談ですが、私達が予備校生の時代、牧野先生は超がつくほどスターだったなぁと思い出しました。確か河合塾の入塾式でもお話されて、スパイスが効いたことおっしゃっていた記憶も。

私が印象に残ったところを抜粋しました。(赤字部分)これで概要は掴めると思います。
直接、サイトにアクセスしていただければ全文読めます。それがベストです!
是非、教育関係者には読んでもらいたい!(こういった内容のことも含め、教育をする、学生を教えるということについて試行錯誤し、考え抜いてほしいなと思います。生意気な言い方になってしまってすみません。)
以下抜粋。
『(中略)多くのテスト結果が、従来の「偏差値」方法では、前提とされている「一つ山」にならず、二つコブのラクダ状になってしまうことである。(中略)そして、この二つのコブの間の分離が大きすぎるために、このコブの間の移動はほとんど不可能になっているように見える。(中略)こうした二つコブの存在は、ほぼ100パーセントの人々が事実として認めた。その二つコブの差が出現する理由もほぼ一致しているのである。その答えは「日本語力」の差にある、つまり「言語論理力」にあるというものである。私自身は、学生の成績は、その学生の家庭的な「文化的蓄積力」と一定の相関関係があるのではないかと推測していた。(中略)最近では次のように嘆く講師を何人も発見することとなる。「Aクラスは、二極に分解した。小さな〈上位層グループ〉と大きな〈下位集団〉に。上のグループはやっている授業が簡単すぎて物足りない。下の方は授業にからっきし着いて来れない」。これを図式化すれば、二つコブのそれぞれのコブの中に、また二つコブがあることになる。(中略)上ゴブ中の下コブの存在は(中略)実はもう一つ重大事を孕む。それは受験生自身の側の問題である一例をあげると、このコブの中にいる者たちの多くが、小・中学校で、あの「訓練型、徹底練習型」の「教育」方式、いわゆる「k式方法」の塾に通い、その勉強をやって来たという事実が多くあるのである。つまり、塾のAクラス(「偏差値」<62.5⇔57.5>)は二つの集団によって形成されていて、その問題がそれなりに理解されている者から完璧な者までの集団>と、<訓練によって、内容的には、あまり分かっていないが、外形上は、解けたように見える者の集団>という二つによって、出来ているのである。この二つのタイプの異なる集団は、外形上は、「偏差値」<62.5⇔57.5>が同値であって似ているように見えながら、その内容が、まったく逆向きである。(中略)この両者を、一つの部屋に入れて同じ何かを考えさせたり、「教育」したり「おしえようとすること」自体、まったく無意味であるどころが、大変な結果を引き起こすことになるであろう。まったく「学び方」が違い、「積極性」「主体」の方向が違っているのである。
(中略)こうした後に何がやって来るか。Aクラスの実際の授業での塾生の理解状況や成績の内実の二極化が進行する。そして、このままでは、授業が成立しないだけでなく、受験生の上コブの下の受験生たちは、講師にどんなに言われても自分の方法を変えず、成績はびくとも動かない。しかし、この人はクラス分けテストを通した<見ばえ>は、「上クラス」に居ることもあって、それで成績が上がらないこと、授業が分からないことから来る心理的なイラダチは、極めて大きい。
 今社会に起こっていること、若者の中に起こっていることは、こうしたことと深く関係するように思われてならない。』

このれぽーとから6年経過した今、これがどのように変化したのか(変わっていないのか)も知りたいと思ってしまいます。変わっていないとしたら、更にこの状況が進行していたとしたら・・・・

こういった角度からの分析は非常に貴重だと思い、教育に関係する方々には是非読んでいただき、考えていただきたいとも思います。(くどいようですが)

本質を見つめているというか、事象をより深くまで掘って見つめているというか、ただただすごい!

文教研れぽーとは、他にも「私の受験時代」とか私にとっては面白い記事があり、たまに読み直したりしています。

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