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2012年11月17日土曜日

多様性と受容性

以前、ツイッターを見ていたらこんな呟きが
『ハーバードビジネスレビュー201211月に「集団的知性はメンバーのIQを足し合わせたものではなく、お互いに意見を受け入れる能力が高いことだという。極端に同質であったり、極端に多様であるより適度に多様であることが大事で社会的受容性が重要だという。」』と。

なるほどなぁ、と思いました。

集団の中で、多様な人間が存在することでそれを価値に発展させるには、お互いの意見を受け入れる受容性があって初めて成立するわけで、社会的受容性が重要だということは納得できますね。
同時に、人間が受容できる範囲というもの限定的でしょうから、適度に多様である、この適度というのも重要なんでしょうね。

考えてみると、
やはり何よりも、一番は社会的受容性が重要だと思いますね。受容性が高ければ、多様性のバラツキが大きくても受け入れることができるわけですからね。
また、私の体験から言うと、「意見を受け入れる能力が高い」環境というのは組織もエネルギッシュになります。意見を受け入れてもらえるということは、多様な価値観の人間同士が様々な考え方・意見・提案等を自由に行える雰囲気があるということであり、いろいろな意味でビジネスもどんどん広がっていく感じがします。(相乗効果を見込めますしね。)個人についても、受け入れてもらえるということは、言い換えれば他者認知であり、自分だけでなく他者も認めてくれているんだ・受け入れてくれているんだということを実感できることであり、これは、個人のモチベーションという側面においても非常にプラスになると思います。
社会的受容性が高いということは、組織・個人それぞれについて活性化させる大きな要因なわけですよね。

同質、多様ということについて、いろいろな体験を頭に描きながら考えてみると、
組織によっては、同質性への圧力を感じる組織というのもあります。ちょっとでも異質なものには敏感に反応し排除に動こうとしますので、どんどん同質化が進みます。極端に同質でもうまくいっているうちはいいのですが、環境の変化が起こったときなどは対応できなくなりますよね。また、進んでいる方向が明らかにおかしくてもそれに異を唱える人がいませんので、崩壊へ進んでいきますし。極端に同質だと新しいものも生まれにくいかもしれません。そもそも、人はそれぞれ個性を持って存在していると思いますので、極端に同質ということ自体異常なわけで、極端に同質になってしまっているとしたならば、それはそれぞれの人が考えを言わないようになって思考が停止している状況なのかもしれません。だから極端に同質というのは考えものですね。

また、極端に多様であるということも、考え方・価値観等において、もうお互いの考えに相容れることができるレベルではないのかもしれませんので、結局、お互いが理解できないまま集団として行動していくということになりますから、集団においては明らかにマイナスですよね。個人においても、結果的に受容されないまま進んでいくので、スムーズにことも運ばなくなりますし、いろいろな面でマイナスになりますよね。だから極端に多様というもの考えものですね。

まぁ、こんな感じで思うがままに、こういろいろと考えると、
やはり何事も適度なんでしょうね。そして、それを受け入れる受容性!
それこそが、1+1を3にも4にもするんでしょうね。
(いくら受容性が高かったとしても受容性にも限界があるわけで、そういうことを考えると極端に同質であったり極端に多様であったりすると、1+1がMAX2で、下手すると1以下になる可能性もあるのかなと。もっというとマイナスになる可能性だってありますもんね。)


(受容性という点では、私が思うには、組織・集団においては特に上の人の受容性の高さは重要ですね。上の人の受容性、要は器ですよ、器。器がちっさい人は上になったらダメですね。組織が小さいうちはいいですが。そういう人は組織を大きくしようと考えない方がいいのかもしれませんね。自分の器にあわせて身の丈にあった感じにしたほうがいいんでしょうね。)

よく世の中的(私もいいますが・・・)には多様性を認めることは大事だ、とかいいますが、いろいろと考えてみると、なかなか難しいものですね。
冒頭のツイッターの呟きは示唆に富む呟きだなと思いました。

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