2012年12月30日日曜日

人に歴史あり、そういった中で形成されてきたものを見つめよう

人はみんなそれぞれの自分史っていうものがあります。

生まれてきたときはまっさらであっても、その後、いろいろな経験や体験やいろいろな人との関わりの中で、それぞれの人が、それぞれの見方・感じ方を身につけて、その人の個性やその人らしさを形作っていっているわけです。
だからこそ、どういったバックグランドの人なのか、家庭環境も含めてどういう環境で生きてきた人なのか、どういった仲間がいるのか、どういう経験をしてきた人なのか、その中でどういう価値観や見方・感じ方を身につけてきた人なのか、どういう思いのある人なのか、それはどの体験に紐づいているのか、どういった選択をしてきたのか、それは何を大事にしたからできたことなのかとか、そういったことについて関心を持って見つめていかないとその人っていうものを理解できないわけです。(これだけやっても理解できないのが人間ですが・・・奥が深いわけです。)


同じ事実を見て、同じような感じ方をすることもありますが、同じ事実を見ても、違う感じ方をすることもあるわけです。(逆に全く同じ感じ方をするっていうことは皆無だと思います。)だって、それはそれぞれが歩んできた道も関わってきた人たちも違うから当然のことですよね。でもそれこそがその人それぞれのらしさであり個性ですよね。


以前、モチベーション研修(?)のファシリテーターをやっていたときに、「自分が生まれてから今に至るまでの履歴」を書いてもらうということをやっていました。
履歴には印象に残っている出来事・節目になった出来事を思い出していただき事実のみを記入してください(感じたことがあればその横に記入してください)っていって書いていただくわけですが、出来上がったものを見ると、人それぞれなんですよね。(中身について、おぉってこの人がこんな経験をしているのかっていう予想外の経験をしていることも多々ありますし。)書く視点も人によって全然違い、プロセス寄りか⇔結果寄りか、他人寄りか⇔自分寄りか、会社寄りか⇔顧客寄りかとか、人それぞれなんですよね。単純に履歴を書いてもらうだけでも、当然、中身は違いますが、書く視点も人によって全然違うわけです。
その後、各々の履歴を題材にしてセッションをするわけですが、
ファシリテーションをしながら、○○さんの履歴であれば、私は、この部分が気になるなって思う部分があったとしても、他の人たちは全然違う部分から○○さんらしさっていうのを見つめていたりするんです。それぞれ関心とする対象は違うわけなんですよね。
また、こういう事実状況に置かれて、なんで○○さんはこういった感じ方をするんだろう自分とは違うなっていうことも多々で出てくるわけです。
まぁ、それがある種その人らしさであり、辿ってきた道が違うことから出てくる個性でもあり、そういった違いを感じ取りながら、それぞれの人を見ていくっていうのは、本当に面白いわけです。
○○さんは、こういう経験をして、こういう感じ方をして、だからこういうらしさがあって、こういう強みがあるのかとか、こういった経験が○○さんのこういう想いに繋がっている原体験となる出来事なのかとか、そういうことを知ることで人への理解って本当に深まるんですよね。
(さらに履歴といえば、その自分史の中では、誰しもいくつかの決断場面があるわけです。その決断場面において
、その人が、その時の事実状況に置かれたときに、何を感じ、選択肢がある中で、何の事実を見て、何を感じ選択したのか(選択しなかったのか)、それを決めたものは何だったのかとか、何を大事にして生きているのか、基準は何か、そういったものを見つめる中でもその人らしさは出てきますよね。そして、それを見ながら自分との違いを感じ取ったりして。そういうことを知ることでも理解はさらに深まりますよね。

まぁ、履歴の交換については書き出すといろいろ書きたいことはありますが、ここまでにしておきますが、やはり、こういうことを見つめていくって本当に重要だなって思いますね。

そういったものを見つめていくことで、お互いの人間関係に深みが増し、そうなることで、本当の意味でのコミュニケーションができてくるのではないかとつくづく思うわけです。
現在の状況だけみて、「あれ?なんでこういう風に感じるのかな?違うな」「何を考えているのかよくわからない」等々って相手を見て思っても、その人の自分史(過去の体験や選択、その人のバックグランド)を知ることで、「なるほどだからそう考えるのか!」ってその真意や理由がわかったり。それによってコミュニケーションを阻害していたものが取れて円滑にコミュニケーションができるようになるとか、そういうことってあるわけです。結構そういうことって多いと思います。じっくり相手と話をしてみたら「実はいい人だった」とか、あるじゃないですか!
こういったことができれば、コミュニケーションだけでなくいろいろなことがものすごく円滑にいくと思うんですけどね・・・

ただし、このようなことができるためには、大前提として人に関心がないとダメですけどね!!
なんでこんなことを書くのか・・・それは内緒です(笑)。いろいろと思うことが多いわけです。


まぁ、今回は人について書いていますが、
人もそうですが、会社も学校もそれは同じで、歴史によって積み重ねてきた文化っていうか、歴史の中でいろいろな出来事があり(それに付随した決断場面もあり)、そういった歴史によって彩られてきたその人らしさであったり、その会社らしさであったり、その学校らしさっていうものがあり、(学校であれば、その学校の生徒やOB達が、その存在によって、その学び舎を通じて形成されたその学校らしさをさらに演出してくれるわけで)そういったものが人・会社・学校の根幹を形作り、核になっているんだと思うわけです。だからやはり会社や学校についてもそういった部分を見つめていくことは重要だと思うんですよね。
未来を考えるにしても、過去があって、今があって、それをベースにして未来があるわけで、だから人なら人の、会社なら会社の歴史っていうものを見つめることははずせないわけですよね。
歴史・辿ってきた道・歩んできた道、こういったことをもっと注目すべきなんじゃないかなって思います。最近、そういった考え方が欠けているような気がして仕方がないので・・・


さらに人について言えば
例えば成功者や尊敬する人の歩んできた道・歴史を見つめていけば・・・そこから生きていくうえで大切な見方・感じ方を学ぶこともできるし、本当にこの部分を見つめることは教育的効果という意味でも大事ですよね!!


そんなことをふと思ったので、今回はこのテーマで書かせていただきました。

2012年12月29日土曜日

「ピア効果」なる言葉を耳にする中で

恥ずかしながら、「ピア効果」なる言葉を最近知りましたが、「ピア効果」とは、一緒に教育を受けるグループの特性が、教育成果に及ぼす影響のことだそうで。まぁ、所謂、朱に交われば赤くなる、ということですね。

ピア効果に関連するコラムはこんなものがありました。
「ピア効果」による学力の伸長〔中学受験合格言コラム〕(筆者:森上展安)(Benesse教育情報サイトより 2012124日)
「ピア効果」で学力を向上させている学校〔中学受験合格言コラム〕(筆者:森上展安)(Benesse教育情報サイトより 20121211日)
家庭における「ピア効果」〔中学受験合格言コラム〕(筆者:森上展安)(Benesse教育情報サイトより 20121218日)

特に私がこの中で一番興味を持ったのは『家庭における「ピア効果」』ですね。家庭教育って非常に重要だと思いますし、家庭における保護者の立ち振る舞いや姿勢(子どもは親の背中を見て育つといいますし)や家庭での子どもへの関わり方によって子どもの成長は大きく影響されると思いますし。ですから、このコラムは是非、保護者の方には読んでいただきたい内容ですね。

さて、上記のコラムでは、
学校におけるピア効果や家庭におけるピア効果がかかれていますが、

下記の研究論文では、結論からいうと、子供の学力は学校だけでなく、本人や家庭の属性によってかなりの程度決定される、としています。やはり家庭は重要なんだと。

いろいろな角度から分析をしていますが、
特に、この論文の結論部分で気になった部分を抜粋すると、

「・子供の学力は、アジアのどの国でも・本人・家庭要因に大きく左右される。
・社会全体の人材育成という観点から見て、学校のできることはどうやら限定的(格差拡大機能すらある。)学校教育の効果に対する過大な期待は禁物
「子供は親を選べない」。人材育成のためには、学校教育の全般的な充実だけでなく、経済的・社会的に不利な家庭で育てられている子供たちに対する直接的な支援策が必要。」

と書いてあります。

確かに、
学校だけでどうにかするとか、塾でどうにかするとかでなくて、家庭・社会も含めた大きなフレームワークの中で考え、相互に作用しあいながら進めていくのでなければ本当の意味で効果的にはできないなって思いますね。


直接的に関係ないかもしれませんが、
人材育成関連で、根っこの教育=生徒の可能性を引き出して成長させる教育を学校とかの場で本当の意味で実現するにはどうしたらいいのかとかよく一人で考えているのですが、

たとえば、やる気を引き出すっていう教育を本気で学校でしようと考えた場合、学校において様々な形で生徒に働きかけを行うのは当然ですが、それだけでは十分ではなくて、家庭や社会、特に、家庭との相互連携(こちらの考えとは違う関わり方を家庭でされている場合はそれを変えてもらうなどの対応や意思疎通など)や、もし家庭として機能していない家庭があれば、その機能を修復すること(もし修復できないようであればいかに社会的に支援していくか)も含めて関わっていくことが重要で、そうしていかないと実現できないなって思うと結構難しいなって思ったりするわけで、、だって、家庭の子どもへの影響力はすごいと思いますし。そう考えると、しっかりと成果を出そうとしたときに学校でできることって極めて限定的だなって感じましたので、
やっぱり「家庭」っていうのは重要なんだよねって意味と、だからこそ「家庭におけるピア効果」をしっかり読んでほしいなっていう意味をこめて、この論文を付け加えてみました。


2012年12月19日水曜日

「素直さ」は本当に大事!


まずは上記の記事を読んでください。

どう感じましたか?

私は、「素直な生徒は伸びる」って親や先生方が言っているのをよく耳にしましたし、自分の体験からもそう感じていますので、この記事を読んで全く意外な感じはせず、むしろ、やはり!って納得してしまいましたね。


素直っていうのは、
受験勉強の時だけでなく実は社会人になってからも重要なことなんですよね。
自分の体験っていうのは社会人になってからの体験なんですが、やはり素直は重要だってつくづく思いましたね。

先輩や上の方が言っていることがよくわからなかったり、何でこんなことやらなきゃいけないんだろうって思っても、
まずは、先輩はじめ上の方の言うことを素直に受け入れる、そして形だけでもいいからまねしてやってみる、それが大事ですね。
でも言われたとおりにやって、自分ではやっている・できたつもりでも、なかなか先輩や上の方の納得するものができない、それで「全然できてない!」って怒られる、それでまた指摘された部分を言われたとおり修正してやってみる、それでもできない、そういうことを繰り返していく・・・これはつらい経験ですが・・・
最初のうちは、うるさいなっ!でもやらなきゃ怒られるし、怒っている意味もわからないけどやるかぁとか、仕方ないから言われたとおり形だけまねをしてみましたってな感じで、それをやる目的とか意図とかそういったもの等を全然イメージしないで、なんとなく言ったとおりに作りましたってなことを繰り返しするわけですが・・・自分で考えてもいないし、なんとなく形だけまねしているだけなんでダメなんですけどね。

そうやってつっかえされるうちに、悩むわけです。何がダメなんだろうって。
そうすることで、思考が始まるわけですよね。どうすればいいんだろうって自分なりに考え試行錯誤するわけです。
そういったことを自分なりに考えながら、先輩や上の方とのやり取りも含めて、繰り返しやっていくことで、ある時に本質的な部分での理解ができ、「ああ、こういうことを先輩や上の方は言いたかったんだ」ってわかり、さらにそれに向かう構えもできてきて、そうすることで次第に先輩の求めていくものアウトプットに近づいていくようになっていくわけです。さらに、それを進めていくことで、次第に勘所もわかっていくわけです。
素晴らしい成長過程ですよね!

こういう状態になったら、もう突破したも同然で、今度は自分流にアレンジしていくようになり、自分のやり方が確立していく・・・もうこれで完璧ですよね。

こんな感じで仕事においては、
こういった段階を経て成長すると同時にクオリティをあげていったような気がします。


さてさて、素直さの話に戻りますが、
やはり、上記の話でポイントの1つになるのは、「まずは先輩にいうことを素直に受け入れること」ですよね!
なぜか。
それは、この成長の過程は「素直に受け入れること」からスタートしたわけですから。逆に、それがなかったら、何も積みあがっていないわけですからね。
(素直に受け入れる姿勢がないと、基本的な部分が固まらないので、成長が遅くなる若しくは成長をしないような気がしますね。)

ということを考えるとやはり「素直さ」って大事ですよね。


私も「素直」かどうかといわれると「素直」な方ではないですし、確かに「素直」は性格なので変えるのは難しいと思います。私の場合、本当に壁にぶつかってどうしていいかわからなくなったとき、まずは「素直」に受け入れることからはじめるようになりました。そして結果として壁を突破できたので、それがよかったんだろうなって思っています。
私と同じように壁にぶつかり悩んでいた人がいましたが、それでも彼は結局自分のスタイルを変えず、人の意見を本気で聞くことをせず我流でやりつづけました。結果的にどうなったか・・・何も積み上がらず潰れてしまいましたね・・・・

まぁ、そんな感じで
  
まずは、一旦素直に受け入れてその通りにやってみるものいいと思いますよ!


【追加】
素直に受け入れてその通りにやってみるのは大事なんですが、素直に聞く際、アドバイスを受ける相手を誰にするのかも大事ですね。
あと複数の人からアドバイス受ける時も注意が必要ですね。複数の人からアドバイスを受けるとその人それぞれでやり方が違うので逆にアドバイスを受ける側は混乱してしまい、どうしていいかわからなくなってしまうこともあるからです。これでは素直さが逆効果になってしまいます。(プロ野球選手なんかでも、すごく有能な若手選手がルーキーとして入ってきて、素直だったがために、いろいろなコーチからいろいろなことを言われてその都度言うとおりに聞いて直していったら、自分のフォームとかめちゃくちゃになってしまって、結局潰れてしまった、なんてことも聞きますからね!)
従って、素直に受け入れる姿勢を持ったとしても、アドバイス受ける際の人選等は慎重に!

2012年12月1日土曜日

何がいいかわからない時代・先も見えない時代、それでも受験をし、職業を選択していく難しさ~ちょっとした事例を挙げつつ~


上記のような記事がありました。
記事タイトルそのままずばりですが、この記事の中で『米デューク大学のCathy Davidsonの研究によると「2011年度にアメリカに入学した小学生の65%は、大学卒業時には今は存在していない職に就くだろう」』という記述がありました。

これを見てどうお感じになりますかね?

私は、え~そうなのって思いつつ、自分と照らし合わせて見ると確かになぁとも思いました。私が新卒で就職したNTTドコモだって、私が小学生の頃にはなかった会社だし。そう考えると、今の小学生にしても、今ある会社や仕事の中から将来の職業を選ぶと前提や考え方の枠組みを捨てて教育していかないといけないということになりますよね。

今、人気がある会社や職業であっても、小学生が大人になる頃にはどうなっているかわかりません。逆もしかりですが。(小学生が大人になるまでは安泰でも、それが未来永劫続くというわけでもありません。)また、今、全く考えもみなかったようなものが小学生が大人になる頃には出ているということも当然のようにあります。

だから、今、人気があるから目指す、この職業は将来安泰だろうから目指すといったスタンスや今ある会社・職業といった既存の限られた範囲の中で考えていく、極端な言い方をすると短絡的に現在の状況だけ見て小さい頃から職業を決め打ちしていくというスタンスより、まずは、自分は何にもなりえる、という大きな構えを持って、それを前提として、その後、自分に何の強みがあり、自分はどういうときに力が沸々を沸き、自分は何に興味があり、何をしたいのか、そして何を将来実現したいのか等といった観点で模索しつつ、現実の自分の実力や家族・周囲からの要望、様々な社会情勢を見極めながら、自分が生きていく選択肢を決めていく、勉強をし、友達や周囲の関わりの中で人生を送りながら徐々に照準を絞っていく、方向性を固めていく、そして最終的に決めるときも自分の中で意志を持って決める、そういった形の方が何があっても後悔しない(後悔は少ない)と思いますし、マッチベターだと強く思いますね。理想論かもしれませんが。


会社や職業の状況って本当に変わるんですよね。そしてそれによって受験の難易度も左右される。そして何を選択すれば将来に渡っていいのかっていうのも、本当にわからない。人生を振り返るくらいの年代になってはじめてわかることかもしれません。


-どれくらい状況が変わるかっていうと、-
会社や職業の状況っていうのは、時代背景や経済情勢、それに伴う産業構造の転換などで相当に左右されるんです

そしてそれに伴い受験の難易度も
以前もこのコラムにちらっと書きましたが、
大学入試における理系の難関学科の変遷を昭和20年代~昭和50年代までで見ていくと、各年代の難関学科はこんな感じになっているわけです。
  昭和20年代:化学・鉱山・繊維
  昭和30年代:機械・電気
  昭和40年代:建築・土木
  昭和50年代:電子・情報

私の親の時代でいえば、繊維や鉱山、鉄鋼といった分野は花形だったようで、それゆえ当時はその分野に関連する学科の難易度は高まっていたようです。(私の中・高校時代はバブル景気で金融機関の人気が高く、受験でいえば社会科学系の学部の人気が非常に高かった時代でした。)産業構造の転換や経済情勢・社会情勢によって、花形の分野も時代とともに変わっていきます。まさにそれが難関学科の変遷で見て取れます。

当時は人気がある(未来も明るいと思われていたこと)からということで、あえて人気学科への厳しい競争に挑み、そこを勝ち抜けて当時の花形産業に入っても、10年、20年たったら斜陽産業になっていた・・・そんなことも普通にあるわけで。
怖いですね~


-大学受験~就職に関していうと、-
その時々に人気のある学部・学科を目指すということは、受験での競争も厳しいのですが、そこを晴れて突破しても、優秀な人間の中での厳しい生存競争は続くわけです。それでもその学部・学科に関連する会社・職業の栄華が続けばいいのですが、もしそういった学部・学科、それに関連する会社・職業が時代から要請されなくなる時代が来たとしたら、人によってはこれだけ頑張ったのにってなんだったんだろういう気になってしまいますね。


-今、仕事がうまくいっているというか、安泰的な感じの友達・知人は、-
順当にいって、うまくいっているという友達・知人も多いわけですが、それは当然のこととして、それとは別に
私が学生の当時、なんでそんな学部・学科目指すんだろうとか思った友達とか何人もいたんですけど、逆にそういった友達の方が今はうまくやっていたりしますね。大学の先生になったり、企業で第一線で活躍していたり、研究で成果を残したりって、うらやましい限りです。
「なんでそんな学科を目指す」って周囲から言われても、それを気にせず、自分のやりたいことがあるから選択するっていう強い動機や意志があって進学し、就職や研究の道に邁進したわけで、それが成功の一番の要因だと思います。
ただ、もっと穿った見方をすると、
そういった学科は人気もあまり高くなかったわけで、競争についても、人気のあるところに比べたら優秀な人が集まりにくい、故に競争(入試の競争も入学後の競争も)も厳しくない、その中で頑張ると、人気のあるところに比べたら目立ちますよね、それが良かったんじゃないかと。本当に穿った見方ですけど。だって、人気のあるところだと、本当に競争厳しいので、相当に優秀じゃないと目立ちませんからね。
あとは、人がやっていないようなとか人がまだ着手しはじめたくらいの新しい領域(珍しい領域)にすすんだ友達も、今や相当活躍してますね。(新しい領域に進んだ私の友達はそれほど優秀ではなかったんですよね。世間的にいう一流企業とかには就職なんてできないくらいだし、でも今や成功している)「そういう仕事もこれからはあるし必要なんだろうけど、やっている人はいないし、正直一般的に知られていないし本当に大丈夫なんだろうか、一般的な仕事をしたほうが安心だと思うけどな!」「まぁ、最先端の感じがするけど、いまいちイメージができなくよくわかんないや」とか私だとそんなことを思うような領域だったんですが、そういう領域に進んだ友達は、本人的には面白そう、何か新しいことができそうだからワクワクするという動機で進んでいたような記憶があります。
まぁ、こういった、時代の変化によって新しくできたような領域だと、まず新しい分野だからそれができる人が少ない、研究成果も少ない、だから活躍できる余地は大いに残されているわけです。ある一定の成果を出せばちょっとした有名人ですよね。そこまでいかないにしても、そこで、少しでも力をつけると、新しい領域では、それができる人が少ない(経験者が少ない)ことから、エンプロイアビリティが高まり、将来に渡って雇用という意味においては相当に強みを持ちますよね。

こうやってちょっと思い出しただけでも、
本当に人生いろいろ、最後の最後までわからない、故に選択した段階では当然それが正解かどうかなんてわからないですよね。

「今の小学生のうち65%は、今存在しない仕事につく」っていうこの一文だけ見ただけでも、いろいろなことを思い出しましたし、それゆえにいろいろと考えさせられましたね。

まぁ、
コラムに書いたようなケースや事実と「今の小学生のうち65%は、今存在しない仕事につく」だろうという事実を重ね合わせたときに、じゃあ子育てについて、教育についてどうするのっていうことをもっともっと広い視野でもっともっと真剣に考えなければいけないと、つくづく思いました。
 

2012年11月23日金曜日

大学⑥見直される地方国立大 ~サンデー毎日2012年12月2日号~ 興味深い記事だな~!

以前、このコラムの中の「大学関連コラム」で旧制高等商業、旧制高等工業等の歴史を持つ優れた大学が地方の国立大に多くあり、伝統・実績は申し分なく、幾多の優秀な人材を実業界に送り込んできた、といったことを書きました。

こういった類いの話は私の興味があるテーマの一つなんです。

それで、
今回、
サンデー毎日2012122日号では「伝統に裏打ちされた研究力・就職力・・・見直される地方国立大」というタイトルで、伝統・歴史を持ついくつかの地方国立大学をフィーチャーしているではありませんか!
興味のある話なので、じっくり読んでしまいました。

記事の冒頭には
『国立大学の志願者数が増え続けている。その要因として地元志向や経済状況などがあげられるが、大前提として国立大のポテンシャルの高さがある。旧帝大などの難関大はもちろん、師範学校や旧制専門学校などが母体となって設置された地方国立大には、教育・研究面で優れた大学が数多くある。』と書かれています。
そんな書き出しでスタートしています。

内容も、
旧帝大、師範学校、旧制専門学校などから連綿と続く伝統を背景とした、その学校毎の歴史に裏打ちされたものがあるからこそ出せるその学校ならではの力(研究・教育・人材輩出等)にフォーカスして話が展開しているので興味深いわけです。


国立大学で紹介されている順に
信州大・繊維(前身:1910年創立 旧制上田蚕糸専門学校
山形大・工(前身:1910年創立 旧制米沢高等工業学校
新潟大・工(前身:1923年創立 旧制長岡高等工業学校
徳島大・工(前身:1923年創立 旧制徳島高等工業学校
九州工業大・工(前身:1909年創立 旧制明治専門学校)
岩手大・工(前身:1939年創立 旧制盛岡高等工業学校)
福井大・工(前身:1923年創立 旧制福井高等工業学校
小樽商科大(前身:1910年創立 旧制小樽高等商業学校
長崎大・経済(前身:1905年創立 旧制長崎高等商業学校
滋賀大・経済(前身:1922年創立 旧制彦根高等商業学校
香川大・経済(前身:1923年創立 旧制高松高等商業学校
鹿児島大(旧制第七高等学校を含む旧制諸学校が前身)

他、いくつかの大学名もあがっています。

この記事とあわせて、『主要56国立大徹底比較』と題して、志願者数・難易度・就職率・出身高校別合格者数等も掲載しています。


どういった研究で強みがあるのかとか、就職ではどういった点で強みがあるのかといったことのアウトラインがわかると思いますので、志望校選びの際など、結構役立つと思います。そして、改めて国立大学の存在感みたいなものも感じ取れるのではないかと思います。

一度、ご覧になると、結構参考になるんじゃないかなって思います。

・ちなみに九州工業大の就職についてはこんな記事もあります。併せてご覧ください。
『就職率95.3% 三菱重工や日立、九州電就職に最短距離の大学』(NEWS ポストセブン20121107)

・週刊朝日2004年1月16日号の『併願大学100パターン どっちに行くのが得か』という記事の中にこんな記載もありました。
以下抜粋
就職で、どっちが得か、の選択基準として、前出の千野氏(「週刊ダイヤモンド」編集部で大学特集を担当)があげるのは大学の「出自」だ。たとえば、やはり銀行への就職率では福島大、小樽商科大、滋賀大などの特定の地方国立大学が有利だ。つまり前身が旧制の高等商業学校だったり、経済専門学校だったりした大学で、全国で十数校ある。
「たとえば福島大経済学部は昭和24年まで東北で唯一の経済学部でした。その伝統から東北一円の金融機関にOBがいて、採用も前例主義なので福島大の枠があるんです」』
このように、
この記事でも旧制高等商業学校を前身とする国立大学の強みが紹介されています。

・こんな記事も
『国立大学唯一の「繊維学部」信州大学はなぜ守り続けているのか』(産学官連携ジャーナル 2009年7月号)

※参考まで
ちなみに、昔の大学の姿とか歴史とかそういったものや、旧制高校や旧制諸学校についてお知りになりたければ、この2冊がおすすめです!
『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』(著者 竹内洋 中央公論新書 1999年4月初版)
『学歴の社会史 -教育と日本の近代-』(著者 天野郁夫 新潮選書 1992年11月発行)

上記の2冊の本は、私が教育社会学の大学院受験の時に、大変お世話になった思い出の本です。直接試験に出るわけではないんですが、教育の中で必ず議論になる学歴というものを歴史の中で見つめていく考え方、歴史の中での学歴や学校のあり様、大きなフレームで学歴や学校を理解するという意味において非常に役に立ちました。

『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』は、私が教育社会学を志すきっかけになった非常に印象深い本です。書店で何気に教育系の本を見ていたときに、偶然出会ったのです。私も以前から旧制高校とかには関心があったのですが、私くらいしか興味がないものだと思っていたところに、この本と出会い、「何だ、何だ、こういったことを研究している方が世の中にいたんだ!面白い!」って非常に驚いたと同時に感動したことを覚えています。そして自分が進む道だっ!なんて大げさに思ったり。
『学歴の社会史』についても、『学歴貴族の栄光と挫折』に続く本はないかなって探していたときに出会った本です。
どちらも読み応えのある本です。理解しながら読もうとするとかなり時間がかかった記憶があります。
私は、詳細な内容は忘れかけているので、これを機会に改めて読み直して見ようかなと思ったりしてます。当時はあれだけがっちり読んだのに、情けない!(再度読むことで、忘れかけていることをしっかり思い出して、知識として頭に残しておきたいって思いますね!それくらい貴重な本だと私は思っています。)

興味のある方は、是非、読んでみてください。  

すごいって思う人達は、やはり、受験勉強を通じて徹底的に考える訓練をしてきていた!!

物事を深く考える、徹底的に考える訓練って重要だなってつくづく思います。
まずは、それをやれるかどうかっていうことが重要だなと思います。

私の高校の先輩で50歳手前の東大工学部出身の方が、
「今でも一番よかったと思うのは、小6時に、受験はしないけど難関私立中の算数とかの問題をすごく時間がかかっても、う~んと考え込みながら解いたことだと。それで考える力が相当ついたと。今考えたら、あの時に、思考力とかを鍛えたことが、後の東大合格に繋がった大きな要因だと思う。あの時の経験が一番大きいんじゃないかと今は思う。」と。

その話しを聞いてなるほどなと思いました。

よくよく考えてみると
≪大学受験においては≫
首都圏や関西圏では、私立中学受験が盛んであり、子供たちは、小さい頃からその私立中学受験のために過酷な勉強をして、思考力(論理的思考力)・集中力・過酷な受験に耐えるだけの精神力等、相当鍛えられていると思うわけです。
逆に地方はのんびりしているし、今のご時世だと高校受験の選抜も緩く、そこまで厳しい環境での勝負はしてきていないわけで、(ということは勉強もそこまでガンガンやっていないわけで、)
この、子供の頃からの環境の違いというのは、つもり積もって、全国相手で戦う大学受験のときにはじめて大きな差になって出てくるんじゃないかと思いましたね。
こういう訓練・経験をあまりしてきてない地方の子供は、もともとの能力が低いわけではないんですが、訓練・経験が足りない、真剣勝負での戦いを小さい頃からしてきてないっていうことが、非常にマイナスなのかなって思います。思考力(論理的思考力)や集中力や精神力等が鍛えられていないということがね・・・
ということ考えると、やはり思考力の訓練っていうのも重要だと感じますね。

≪さらに社会に出たときには≫
そして、そういった受験を経て、最終的に東大、京大、阪大、一橋、東工大等といったトップクラスの難関大出身者となった方たちと社会に出て接してみると、やはり、受験によって、相当に頭が鍛えられているって感じますし、それって、普通の人が、社会に出てから頑張っても追いつけないくらいの差になっているような気がします。
考えるというと理数系の学問になるので、理系の方になるのかというと、別にそういうわけではなくて、文系でも理数系をしっかり徹底的にやってきた人の思考力もすごいと思います。
あと、ツイッターでこんなことを書いていた人も→『なぜ法学部卒がジェネラリストになれるのか。もちろん上位校にはそもそも基礎学力が高い学生が多いが、法学部で法律学を学んだ結果、高度な論理的思考力や課題解決能力が育成される点は見過ごせない。』と。優秀な人がさらに大学の教育の中で、思考力を鍛え、さらにその能力を向上させていく、こういったこともあるわけです。このツイートを読んでも、思考力の訓練は重要だと感じますよね!

勉強をする意味って何?って思うこともあると思いますが、
こういったことを考えていくと、
やはり、上位を目指して、徹底的に考え抜く勉強っていうのは思考力・集中力・精神力・課題解決力等という社会で生きる力も自然とついていくわけで、本当に頑張り抜いた先には、生涯に渡る価値のあるものを身につけることができるんだなと思いますね。


特に、小さなお子さんを持つ親御さんは、こういったことを意識した上で、お子さんにトライさせることを決めていくと、お子さんの将来にとってプラスになるかなって思います。


※参考まで
こんな本があります。おもしろそうな本だと思います。

2012年11月17日土曜日

「トップ高の下位層の生徒の成績を上げられない」ということについて

難しい問題ですな!このことについてはそう思うわけです。

「トップ高の下位層の生徒の成績を上げられない・・・それで悩んでいる」という話しを小耳に挟んだとき、ふと、この本の内容がまた頭をよぎりました。

その本とは
いつも紹介している
『日本のメリトクラシー 構造と心性』(著者 竹内洋 東京大学出版会 19957月初版)です。

この本の中の、こうなる構造について説明した、下記の記載があります。以前の載せたことがある記載ですが。

以下抜粋。
『(中略)日本では加熱と冷却がトラック間に作動するのではなく、トラック内部に生じる。トラックが学校単位になっているから、トップの高校においても成績下位の者には押し下げ効果によって冷却が作動する。押し下げ効果とは、絶対水準で学力が高くても所属集団が学力が高い集団で相対的に下位になることによってクール・アウトされてしまうことである。逆に二番手、三番手の高校であろうとも成績上位者には押し上げ効果が生じ加熱が作動する。押し上げ効果とは絶対水準の学力がかならずしも高くなくとも所属集団内での相対的位置では高くなり、加熱効果が作動することである。所謂フロッグ・ポンド効果(鶏口となるも牛後となるなかれ)である。』

例えば、トップの高校だからみんながみんなモチベーション高く加熱していて、下位の高校だと逆にモチベーションが低く冷却している、というわけでなくトラック内部(それぞれのレベルの高校の高校単位の中で)で加熱や冷却が作動しているということなんですよね。
そして、私が思うには、上位の高校になればなるほど、高校に入るまでは当然上位にいるわけですから、トラック内部で下位層になるという経験もなかったわけで、それが高校に入ったら下位層というはじめての状況になったとしたら、冷却という負の方向に引っ張られることは当然のこととして、さらにその引っ張られ方はそれ以外のレベルの高校の人間と比較した時に強いのかもしれませんね。(上位の高校になればなるほど、集団の相対的なレベルが高いので、順位も上げずらいし、これだけやればこれくらい上がるだろうという先が見えずらいですし、などなど負に引っ張られる要素は多いと思うわけです。)そうなると根も深いですね。

といった感じで、
こういった構造があるんですよね。だから難しいんですよ!


これに関連して、私の体験も書かせていただこうかと思います。
私も、トップの高校の出身(当時で毎年東大に10数名合格するくらいのレベルの学校ですね、私の時代は東大に16名合格しました。)なんですが、覚えている限りで書きますと
テストの順位は、高1の冬で、大体学年で400名くらいいて、確か50番くらい、高2の一学期で80番くらいと、めちゃくちゃ勉強を頑張ったっていう記憶はないのですが、それなりに勉強をしていてそれなりに上位にいました。確か高2の夏前の面接のときに、文系に行きたいという話しをしたら、先生から「一橋大を狙うくらいの意識で行け」といわれたくらいなので、できた方なんだと思います。
そこからが問題なのですが、だんだん、勉強をする意味というのがわからなくなり、高2の夏明けから全然勉強をしなくなりました。本当に全くしなくなった・・・
トップ高校だけに、一気に成績は落ちますよね。気がついたら高3に入っていて、もうリカバーができないくらいになってしまっているんですよね。ちょっとやったくらいでは、成績が上がらない・・・・もう何をやっていいのかわからなくなっている。周りは徐々に受験に向けてアクセルを踏み出している・・・やばいと。でも自分は成績がよかったときのイメージがあるので、自分はできると思っている。自分より下の人間に抜かれている現実や成績が落ちてしまっている今の現実を認めようとしない。「やればできるのにやらないからできないだけ。だから今の自分は自分じゃないだよ」って心の中で自分に言いながら何もしない。何もしないからさらに負のループみたいな感じになって、もうどうしようもない状態。勉強をしない理由を別のことをやっているから、みたいな感じで自分で勝手に逃げ道を作って逃避行動をして・・・
まだ、やる気が10のうち2でもあれば、何とかなるのかもしれませんが、もう0になっているので、どうしようもない。とにかく逃避行動を取り続けて行く、そんなことをしながらさらに冷却していく・・・・最悪な状況ですよね。
今思えば、高3の段階でリカバーできないくらい悪いというわけでもなかったと思うわけです。確かに、自分の成績のピーク時と比較すれば順位はガタ落ちで、下の方にいってしまいましたが、それは自分の学校内でのことであり、トップ高校だったからあたかもすごく悪くなったように見えますが、相対的に見れば別に全然悪くはないわけです。でも上記でいう「冷却」が作動してしまったんだと思うんですよね。
あの時に、もう一度体制を立て直して、気持ちを切り替えて前の進めば全然リカバーできたのではと思うし、そうすればよかったのにそれができなかったんですね。
(なんだかんだ言っても、まだ高校生ですから、気持ちも弱いところがあるんですよね。自分で立て直すことができないわけですよ・・・)

モチベーションの観点から追加していうと、トップ高でも下位層に入ると、トラック内部(トップ高校の内部)での評価として、できない奴という目で見られるようになります。当然、先生も期待しなくなります。要は周囲からは負のイメージで見られるようになるわけです。(特にトップ高になればなるほど、その人その人に対しての評価が「成績の良し悪し」といったことに影響を受けやすく、「成績の良し悪し」といったことが評価指標に占めるウエイトも大きいと思いますので、それだけに成績が下位層になるということはその人の評価に大きな影を落とすことになると思います。)本人も感覚的に「ダメだと思われている、期待されていない」っていうことは実感として感じとれますので、どんどん自分自身も萎縮してくるし、当然、やる気も出ないし、バックギアに入りますよね。(ただ、トップ高校なので、世間的に見れば、下位層といってもそこまで成績は悪くないんでしょうけど。外と比較してもっと大きな括りで俯瞰して見れたらいいのですが、こういったことはどうしても、所属集団であるトラック内部の中で現象として起こってしまうんですよね。そして長い時間一緒に生活をおくる所属集団の中でこのような状況が続けば誰でも冷却していきますよね。)
こういった要因もあると思います。

いずれにしても、トップ高の下位層には押し下げ効果によって冷却が作動するわけです。だから中々成績が上げられないっていうのはそういった構造からというのも理由の1つかもしれません。
※押し下げ効果によっての冷却はトップ高のみで起こることではなく、どのレベルの高校にも起こることですが、今回はトップ高について、トップ高の特性も含めて言及しています。
ちなみに余談ですが、2・6・2の法則~
人が集団を構成すると2・6・2の法則(優秀な人が2割、普通の人が6割、パッとしない人が2割)が成り立つと言われており、本当にどこにも起こりうることなんですよね。しかも下の2割をカットしても、普通だった6割の中の一部がまたパッとしない2割を構成するようになるわけで・・・。

では、それでも状況を好転させる、成績を上げさせるためにはどうすればいいのか
自分の経験からいうと、
自分の能力・可能性を絶対的に信じてくれて、いまある現実を受け止めて、その上で気持ちを切り替えて前に進ませてくれるようなサポートがあればよかったのにと思います。
自分の能力・可能性を信じてくれているということが大前提で、そういう自分の今までの状況を理解して受け止めてくれたうえで(さらに言うならば、自分を客観視させてくれる→大きな括りで全体を俯瞰してみせてくれて、世の中全体としての位置づけはこうで、客観的にはこうで、この状態だとこうなる、そして将来はこうだとか、客観的にはこう見えるとかなどなど、本人が理解するまでは時間がかかる根気のいることですが、そういった自分を客観視させてくれる・自分を冷静な状態に戻してくれるアプローチも有効だったかと思います)、厳しくも温かいサポートがあれば、また自分も立ち上がって再度戦うことができたのではないかなって思います。今思えば、先生も周囲の大人も、全然自分の立場に立ってくれていなかったなって思うわけですよ。人によっては、よき理解者ずらをしているけど、全然理解していなかったなと。
もっと本気で関わってくれたのであれば、最初は相当に反発すると思いますが、絶対に状況は好転したかと思いますね。とにかく、自分の今までの状況、思い、今の置かれている状況、将来への思いっていうものを洗いざらい話させてくれて、それを理解して真正面から受け止めて、そして本気が関わってくれる人がいたら・・・って思いますね。そうしたら、気持ちを切り替えて前に進んでいったような気がします。
さらにいうならば、その時点での学力レベルを洗いざらい、いろいろな角度から把握しようとしてくれて、結果、把握し、それを前提に、例えば「今からだと、この参考書とこの参考書をこれだけの期間にこれくらいやれば、必ずここまでのレベルに上がる、だから信じてやれ」って具体的に方法論を提示し、納得しなかったとしても、納得するまで向き合い、やると決めさせて、やり切るまで徹底的に関わってくれていたら、もうそれは最高の結果だったような気がしますね。
(このアプローチはトップ高の生徒だけではなく、どのレベルの生徒に対しての対応でも言えることですが)


冷却しているわけですからモチベーションも10段階でいえばかなり低いか0なわけですよね。一旦動きをとめてしまったものに対して、それをまた戦うモードにもっていかなければいけないわけで。
従って、個人個人にフォーカスして、「きめ細かい対応をして気持ちの面で変化を与えるような関わり+具体的な方法論の提示+信じて徹底的に関わる」といったことをすることが求められると本当に思いますね。
トップ高の生徒であればプライドもある、その中で下位層になってしまったという挫折感という傷口は大きい、それなりに頭も良い、バカじゃないから単純ではない、小手先のきれいごとなんか見透かされる等々、だから一筋縄ではいかないと思いますので、二番手以下の高校の生徒の関わる以上にパワーがかかると思います。相当なパワーがかかると思います。でも、それくらいの本気度がないと生徒は変わらない・動かないのではないかと思います。

それだけのことをやる覚悟があるのであれば、関わっていただき、こういう状況にある生徒を好転させて欲しいと思いますね。


「トップ高の下位層の生徒の成績を上げられない・・・」という話しを聞いたので、それに関連して思ったことをとりとめなく書いてみました。

多様性と受容性

以前、ツイッターを見ていたらこんな呟きが
『ハーバードビジネスレビュー201211月に「集団的知性はメンバーのIQを足し合わせたものではなく、お互いに意見を受け入れる能力が高いことだという。極端に同質であったり、極端に多様であるより適度に多様であることが大事で社会的受容性が重要だという。」』と。

なるほどなぁ、と思いました。

集団の中で、多様な人間が存在することでそれを価値に発展させるには、お互いの意見を受け入れる受容性があって初めて成立するわけで、社会的受容性が重要だということは納得できますね。
同時に、人間が受容できる範囲というもの限定的でしょうから、適度に多様である、この適度というのも重要なんでしょうね。

考えてみると、
やはり何よりも、一番は社会的受容性が重要だと思いますね。受容性が高ければ、多様性のバラツキが大きくても受け入れることができるわけですからね。
また、私の体験から言うと、「意見を受け入れる能力が高い」環境というのは組織もエネルギッシュになります。意見を受け入れてもらえるということは、多様な価値観の人間同士が様々な考え方・意見・提案等を自由に行える雰囲気があるということであり、いろいろな意味でビジネスもどんどん広がっていく感じがします。(相乗効果を見込めますしね。)個人についても、受け入れてもらえるということは、言い換えれば他者認知であり、自分だけでなく他者も認めてくれているんだ・受け入れてくれているんだということを実感できることであり、これは、個人のモチベーションという側面においても非常にプラスになると思います。
社会的受容性が高いということは、組織・個人それぞれについて活性化させる大きな要因なわけですよね。

同質、多様ということについて、いろいろな体験を頭に描きながら考えてみると、
組織によっては、同質性への圧力を感じる組織というのもあります。ちょっとでも異質なものには敏感に反応し排除に動こうとしますので、どんどん同質化が進みます。極端に同質でもうまくいっているうちはいいのですが、環境の変化が起こったときなどは対応できなくなりますよね。また、進んでいる方向が明らかにおかしくてもそれに異を唱える人がいませんので、崩壊へ進んでいきますし。極端に同質だと新しいものも生まれにくいかもしれません。そもそも、人はそれぞれ個性を持って存在していると思いますので、極端に同質ということ自体異常なわけで、極端に同質になってしまっているとしたならば、それはそれぞれの人が考えを言わないようになって思考が停止している状況なのかもしれません。だから極端に同質というのは考えものですね。

また、極端に多様であるということも、考え方・価値観等において、もうお互いの考えに相容れることができるレベルではないのかもしれませんので、結局、お互いが理解できないまま集団として行動していくということになりますから、集団においては明らかにマイナスですよね。個人においても、結果的に受容されないまま進んでいくので、スムーズにことも運ばなくなりますし、いろいろな面でマイナスになりますよね。だから極端に多様というもの考えものですね。

まぁ、こんな感じで思うがままに、こういろいろと考えると、
やはり何事も適度なんでしょうね。そして、それを受け入れる受容性!
それこそが、1+1を3にも4にもするんでしょうね。
(いくら受容性が高かったとしても受容性にも限界があるわけで、そういうことを考えると極端に同質であったり極端に多様であったりすると、1+1がMAX2で、下手すると1以下になる可能性もあるのかなと。もっというとマイナスになる可能性だってありますもんね。)


(受容性という点では、私が思うには、組織・集団においては特に上の人の受容性の高さは重要ですね。上の人の受容性、要は器ですよ、器。器がちっさい人は上になったらダメですね。組織が小さいうちはいいですが。そういう人は組織を大きくしようと考えない方がいいのかもしれませんね。自分の器にあわせて身の丈にあった感じにしたほうがいいんでしょうね。)

よく世の中的(私もいいますが・・・)には多様性を認めることは大事だ、とかいいますが、いろいろと考えてみると、なかなか難しいものですね。
冒頭のツイッターの呟きは示唆に富む呟きだなと思いました。

高校⑦「明確な、具体的な目標を置ける」ことの大切さ~旧帝大の高校別合格者数から読み解く~

今回は、なぜ地元に旧帝大がある地方のトップ校は旧帝大の合格者が多いのか
もっというと、「目標が明確である、目標が具体的であることって結構重要だよね」

っていうことを旧帝大の高校別合格者のデータ等を使いながら書いていこうと思っています。


旧帝大のある地域の中で、公立高校優位(公立高校受験がメイン)のエリアにある旧帝大をピックアップして合格者を見ています。
※首都圏や関西圏は私立中学受験が盛んで、全国的に見ると特殊であるため、一般的な状況を探るために、今回は公立高校優位のエリアにある旧帝大をピックアップしています。

データ①北大・東北大・名大・九大の高校別合格者数トップ20
(データは「教育進学総合研究所」の学校なんでもランキングを参照しています。)


大学毎の高校別合格者数の中で
・北海道大学は高校別合格者数ベスト20すべてが北海道の高校
 人数にして(ベスト2021校あるが)906名 ※合格者総数2,666

・東北大学は高校別合格者数ベスト20の内5校が宮城県の高校
 もっというとその5校とも仙台市内の高校  
 人数にして257名(5校計) ※合格者総数2,586

・名古屋大学は高校別合格者数ベスト20の内16校が愛知県の高校
 人数にして744名(16校計) ※合格者総数2,240

・九州大学が高校別合格者数ベスト20の内12校が福岡県の高校
 人数にして739名(12校計) ※合格者総数2,744

尚、名古屋大学についてはベスト20すべてが東海地方(愛三岐)の高校、九州大学についてもベスト20すべてが九州地方の高校となっています。
東北大学についても東北地方の高校が16校ランクインしています。
いずれにしても地元強しです。

ちなみに北海道・宮城県・愛知県・福岡県の人口を見てみましょう。
北海道人口:約548万人
宮城県人口:約233万人
愛知県人口:約743万人
福岡県人口:約509万人
人口的に見れば、東北大学に占める宮城県の高校の数が少ないのは頷けるでしょう。


これを示して、私は何が言いたいのか?
といいますと、
やはり「明確な目標・具体的な目標」があると大きいよね、頑張れるよねっていうことです。
高校時代に、こういったエリアのように地元に明確な目標となる旧帝大があることが、勉強に対しての大きな動機付けになるということです。

もっというと、こういったエリアの高校生は下記のような流れにあるのではないかと思いますね。

~明確な目標意識~
多分、小さい頃から、「この大学はすごいんだよ」って聞かされて育ち、尊敬や憧れの存在としてそういった大学を見てきたことでしょう。従って、こういった地域の高校生、特に上位高校の高校生は、「ああ、ここの大学に行きたいな」っていう強い想いがあると思うわけです。例えば、北海道であれば憧れの北大に行きたいと思う、北大を目指す、具体的な目標として意思を固め北大を目指すということが高校の早い段階でできます。
明確な目標意識を持ちやすいということですね。

~ロールモデルが身近にいる~
そして、自分の高校の先輩、地元の先輩が多く進学しているわけですから、憧れの存在(ロールモデル)が身近にいて、さらに、その先輩から大学に関することもいろいろ聞けたとしたらさらに、その大学に向けての志望動機が強まるでしょうし。その大学の受験に向けて、具体的なイメージができると思います。
あの先輩が入学したんだということで、それを自分におきかえて、具体的なイメージがしやすいということですね。

~その大学の合格に向けた対策の充実~
また、こういったエリアの高校では、ターゲットとなる大学が明確であり、しかも長年にわたって多くの進学者を出しているため、その大学の受験対策は充実しているだろうし、効率的に合格できるためのノウハウもあると思います。(近隣の塾も同様だと思いますが)その大学の受験に適した環境になっているということですね。

~最後の踏ん張りもきく~
小さい頃から尊敬や憧れの存在として見てきた地元の名門大学だからこそ「この大学に行きたい」をいう強い思い、他地域の生徒以上に地元の生徒ならではの、強烈に強い思いが、たとえちょっと実力が足りなかったとしても、最後の最後まで諦めないでやり遂げようとする、最後の最後まで踏ん張ってやる、そういった行動に繋がり、結果的に合格を手繰り寄せるのではないかと思うわけです。

まとめるとこんな流れですかね。
明確な目標を持て(意思を持って設定)、それがモチベーションとなる→そしてさらには身近にロールモデルもいてイメージがしやすい+先輩からいろいろ聞けるとさらに志望動機も高まる→モチベーションが高まってやる気が出ている中で、学校や塾でもその大学への受験対策は充実している(若しくは参考になる先輩が多い)→その大学を受験する環境が整っており、その大学に進学するための道筋も明確に提示されるのでドンドン力が付いてくる+最後の踏ん張りもきく→合格へ
こんな流れが出来ているわけですかね。

いずれにしても、こういった旧帝大があるエリアの高校の高校生は、上記の面からも結構なアドバンテージだなって思います。


では比較として
旧帝大がないエリアの県を1県見てみましょうか。

静岡県を見てみましょう。
静岡県は人口は約374万人。宮城県の人口よりは多いですが、北海道や福岡県にはちょっと少ない人口規模です。でも全国的に見れば人口が多い県です。
静岡県は東部・中部・西部と分かれていますので、2012年度の合格実績から、東部から1校、中部から1校、西部から1校、トップ校をピックアップします。(静岡県東部から富士高校、静岡県中部から静岡高校、静岡県西部から浜松北高校)

その静岡県の3校の2012年度の旧帝大の合格者実績は下記の通りです。
データ②


  
人工規模的に見ても、静岡県の上位高校が、北海道や宮城県や愛知県や福岡県の上位高校と比較してそこまで生徒の質的面で落ちるとは思えませんが(静岡県の生徒の質が低いとは私は全く思っていません。のんびりしているという地域性はあるかもしれませんが、生徒の質や能力的には変わらないと思います。)、データ①とデータ②を比較すると、何でっていう結果になります。(余談ですが、静岡高校は、静岡市の人口が約71万人のトップ校であるにも関わらず、この進学実績はふがいないですよね~(T_T)

ではなにが違うのか、そう、静岡県には旧帝大がないんですよね!!

静岡県にも静岡大学という国立大学があり、静岡大学は歴史的に見ても、実績的に見ても、非常に素晴らしい大学だと思います。幾多の優秀な人材を世に送り出していると思います。しかし旧帝大ほどのインパクトというか、憧れを持って目標とするっていうレベルまでは達していないのかなっていう感じです。(特に上位校の生徒においては)

従って、北海道・宮城県・愛知県・福岡県との違いの1つとして、旧帝大がないことで明確な目標を持ちにくいということが言えるのではないでしょうか。そのことが、3年後の進学実績に影響しているのでは・・・私の仮説ですが。

裏を返せば、静岡県にも旧帝大があれば、愛知県や福岡県等とかと同じような状況になっていたのではないかなと私は思います。
旧帝大がないエリアのトップ校出身の友達は、「地元に旧帝大があれば、全然モチベーションが違っていたのにな!目指すべき目標が高校入学して明確にできなかったのはよくないよな。俺の地元に北大があれば北大目指して頑張って合格して大満足って感じだよな~」って言っていましたね。(私も激しく同意!)
他にも何人かの友達からも近しい発言を聞いたこともありました。
高校に入った段階で、○○大学でこれをしたいといった明確な目標をもっている生徒なんて非常に少ないと思います。絶対○○大学だっていう生徒も非常に少ないですよね。だから目標とする大学っていうもの、なんていうか本当の意味で明確にもてないんですよね。(要は、志望動機が何かに紐づいているみたいな)まぁ、名大でも東北大でもいいな、神戸大もいいな、北大もなかなかよいな、そういえば、雑誌に慶應三田会の人脈みたいなことが書いてあったな~慶應もいいなってな感じでぐらぐらゆれますよね。
その点、地元に旧帝大があれば、地元のトップ校の生徒はまず、その地元の旧帝大を憧れを持って目指す、そこがスタートで、その過程の中で自分の実力を高めていく、そして、もっと上を目指せるじゃんって思えば、東大とか目指していく、そんな感じではないでしょうかね。


だから、明確な、具体的な目標を自分の中でしっかり置ける・完全に確定させているということが大切だよなっていう1つの例として、今回書かせていただきました。