ちょっと長いですけど前置きから
〔今の学校・塾の指導について・・・〕
いろいろな高校を見ていると、どの学校も、進学に力を入れています。塾も、より上の学校に合格させるために受験テクニックを伝授したり受験指導に力を入れています。昔の学校は、それぞれの学校のレベルに応じて指導は様々だった気がしますが、今日のように、大学進学が当然という時代になってくると、やはりどの学校も必然的に進学指導に力をいれていくのはある意味当然なのかもしれません。
〔今の学校・塾の指導について・・・〕
いろいろな高校を見ていると、どの学校も、進学に力を入れています。塾も、より上の学校に合格させるために受験テクニックを伝授したり受験指導に力を入れています。昔の学校は、それぞれの学校のレベルに応じて指導は様々だった気がしますが、今日のように、大学進学が当然という時代になってくると、やはりどの学校も必然的に進学指導に力をいれていくのはある意味当然なのかもしれません。
学校・塾も保護者・生徒に選ばれなければ生き残っていけない時代です。そう考えた時、今のご時勢の保護者・生徒のニーズが進学や受験指導ということを考えると、当然そうなってしまうのでしょう。
〔受験競争と学歴について・・・・・〕
しかも、下記の記載(どこかの書物に記載されていた)にあるように、こういった環境条件がどうしても受験に向かわせてしまうということはある種、仕方がないことなのかもしれないです。↓
『学歴社会は、業績(実力)主義なのか、属性(実力ではなく、本人の属性・レッテルによる評価)なのか、あるいは学校世界の業績主義が卒業後に属性主義に転換されるのか。学校は業績主義社会をつくるための社会装置である。にもかかわらず、こうした議論が出てくるのは、学歴が年齢という属性に「閉じこめられている」からである。18歳や22歳の「学歴」しか、学歴として認知されていない。~そのため、「たった一度」の学歴取得チャンスが、大きな重みをもつことになる。~学歴意識が異常に高まる理由の1つはこの年齢主義にある。この「年齢主義的学歴」が、出発点への強い「参入条件」になっている。』
※さらに受験競争が過熱する仕掛けは「日本のメリトクラシー 構造と心性」(東京大学出版会1995年 著者:竹内洋)に詳しく書かれている。(このコラムの最後にその内容の抜粋をのせます・・・注①) ※この本は1995年に出版されていますので、教育環境の置かれている状況が当時と今とで異なっているとは思いますが、それを考慮に入れても、非常に参考になると思います。
ちなみにこの本は私が大学院の勉強のときに使った専門書の1つです。(内容は機能理論・葛藤理論・解釈理論の説明、トーナメント移動や増幅効果論・冷却論のついて、選抜システムを導きの糸に受験と選抜、就職と選抜、昇進と選抜についての考察、学歴ノンエリートと冷却について、書かれています)
こういったものを見ていくと、今日まで続く受験競争も構造的な部分からもある種当然の帰結なのかもしれません。
こういったものを見ていくと、今日まで続く受験競争も構造的な部分からもある種当然の帰結なのかもしれません。
区分をもう少し分かりやすく書いてあるのが(大学・短大進学率等に見る「区分」)になります。
親御さんがいい高校、いい大学に行かせたいと思うのはやはり将来を案じてのことだと思いますので、今からはちょっと就職も絡めて書いていきたいと思います。
マーチン・トロウの三段階区分でいうところのエリート期(昭和30年代後半まで)は大学というものにある一定の価値がおかれていた時代であり、大学を出たか、そうでないかで、ある種就職でも明確に差別化されていた時代であったと思います。そこからマス期に入り、大学進学率が上昇することで、今度は大卒かそうでないかで分けるのではなく、どこの大学なのかということで差別化される時代となり、就職でもより難関大学であるほど、就職には有利に働くような時代であったと思います。そして今はユニバーサル期となり、さらにみんなが大学に進学するようになり(受験形態も、一般・推薦・AO入試が混在し、入試の軽量化もすすみ)、しかも少子化や教育改革の影響もあり、大学自体のレベルの低下も叫ばれ、就職で選抜する際に、今の大学生をどう見立てていいのかわからない時代になっていると思います。確かに、今でも大学による就職格差はあるとは思いますが、現在の大学生の学力レベルが以前と比べて低下していることは周知の事実だと思いますから、たとえ有名大学だといってもそれを額面どおりに企業も受け止めないのではないでしょうか。(『入試の変化によって、大学の名前による学力判断は困難になる。この時に困るのは採用する側の会社である~市場の圧力によって、就職共通一次試験のようなものが誕生するだろう。』と入試の変化によって採用する側である会社のスタンスも変化していくだろうと指摘する声もあるんですよ、だから私一人が感じているわけじゃないんですよね、実際。)(今の大学生はダメだと言っているわけではないですよ。学力という意味において以前より低下しているということです。これは今の大学生の責任というよりは、入試形態の変化や教育改革や今という時代に責任があるのかもしれないと思いますので、今の学生さんがこれを読んでもあんまり気になさらないでくださいね。しかも、あくまで私見ですから)
マーチン・トロウの三段階区分でいうところのエリート期(昭和30年代後半まで)は大学というものにある一定の価値がおかれていた時代であり、大学を出たか、そうでないかで、ある種就職でも明確に差別化されていた時代であったと思います。そこからマス期に入り、大学進学率が上昇することで、今度は大卒かそうでないかで分けるのではなく、どこの大学なのかということで差別化される時代となり、就職でもより難関大学であるほど、就職には有利に働くような時代であったと思います。そして今はユニバーサル期となり、さらにみんなが大学に進学するようになり(受験形態も、一般・推薦・AO入試が混在し、入試の軽量化もすすみ)、しかも少子化や教育改革の影響もあり、大学自体のレベルの低下も叫ばれ、就職で選抜する際に、今の大学生をどう見立てていいのかわからない時代になっていると思います。確かに、今でも大学による就職格差はあるとは思いますが、現在の大学生の学力レベルが以前と比べて低下していることは周知の事実だと思いますから、たとえ有名大学だといってもそれを額面どおりに企業も受け止めないのではないでしょうか。(『入試の変化によって、大学の名前による学力判断は困難になる。この時に困るのは採用する側の会社である~市場の圧力によって、就職共通一次試験のようなものが誕生するだろう。』と入試の変化によって採用する側である会社のスタンスも変化していくだろうと指摘する声もあるんですよ、だから私一人が感じているわけじゃないんですよね、実際。)(今の大学生はダメだと言っているわけではないですよ。学力という意味において以前より低下しているということです。これは今の大学生の責任というよりは、入試形態の変化や教育改革や今という時代に責任があるのかもしれないと思いますので、今の学生さんがこれを読んでもあんまり気になさらないでくださいね。しかも、あくまで私見ですから)
だとしたときに、では何で学生を見ていくのか。簡単に言えば、今はその個人個人にどんな能力や可能性、資質があるのかで見ていくことで選抜するしかなくなっている気がします。まさしく、その人自身、その人自身の人間力といったところでしょうか。以前から企業の採用は個人を見てきたと思いますが、それ以上に入念に個人にフォーカスして見ていくのではないかと思います。(当然、どこの大学出身なのかということは重要なポイントであることは間違いないのですが、それが昔ほどのインパクトを持つかというとNOということです)
こういったことも考慮に入れると、今の学校や塾がやっているような、ただ単純に大学に合格させるために受験指導を頑張るというのはどうなのかなと思ってしまいます。受験指導が悪いといっているわけではありません。受験指導・勉強を教えていくということは非常に重要だと思っています。ただ、あまりにも目先の受験指導に偏りすぎていると思います。そして、誰もに対してそれを要求しているように見えてしまいます。それによって、あまりにも画一的で、単一的な価値基準で動いているような気がしてしまいます。本当に将来を見据えているのかと思ってしまうこともあります。(ちょっと大袈裟にいうと)
教育に携わる人間は顧客のニーズに応えることも大事ですが、もっと大きく大局的な見地からとらえ、教育のあるべき姿を模索していかないといけないと思っています。少なくとも、私は、今のままではいけないのではないかと思っています。教育の失敗はすぐ見えず、何十年か先になってはじめて見えるわけで・・・・。
そういった点では、今、学校が取り入れているキャリア教育というものは非常によいことだとは思います。但し、しっかりと、コンセプトを押さえて、徹底して提供しているのであればOKだと思いますが、そうでない場合は、ただやっただけになってしまう危険性はありますが。(それならば、勉強だけ力を入れた方がよっぽどいいと思いますね。)
いろいろと書きたいことを書いてきましたが、ここからが今日の本題です。今の学生は、これから社会に出ていくわけですが、出ていく社会というのが、本当に先が見えにくい非常に厳しい環境であるわけです。私としては、だからこそ、学生に身につけほしいと思うもの(学校の教育や生活の中で身につけてほしいと思うもの)があります。それを2つ書きたいと思います。(勉強も大切ですが、それ以外のことです)今から書くことは、 どちらかといえば、根っこの部分の教育になりますが、まずはそれが生きていくうえでもベースになりますし、本当の意味で大切なのではないかと思っています。学校も、こういった部分にもっともっと情熱を注いでほしいと思っています。(先生・指導者が、目の前のこの生徒を一人前にするにはどうしたらいいのかということに情熱を注ぐということにも繋がるし、本当の意味で個を伸ばしていくことにもつながります)まさにやる気を引き出す指導ということになりますね。
まず1つ目は、
社会に出て成功するためにとか、もっというならば幸せに生きるためにとか、そうなるような見方・感じ方を身につけてほしいということです。
何かの壁にぶつかった時でも、その壁に対してどう感じてどう対処するか、立ち止まらず、逃げずに前に進んでいくにはやはりそうできるような見方感じ方を身に付けている必要があると思うわけです。
ではこれはどうやってするのっていうと、それは受験指導(結果ではなく、過程)の中でもできるし、スポーツ指導の中でもできるし、外部の社会体験カリキュラムでもできると思いますが、先生・指導者がそういう体験の中のいくつかの局面の中で、それぞれの生徒に何を掴んでほしいか明確に決めて生徒に関わっていくこと(まぁ、こういった体験を通じて生徒が何を掴むか、何を気づくかは生徒それぞれですが、でも大きなくくりの中で先生・指導者が「何を掴んでほしいのか」ということをイメージしていることは必要)や、こういった指導の過程の中で、生徒が壁にぶつかり、プラス~マイナスに揺れる中で、壁の乗り越え方のきっかけや、それを乗り越えるための見方・感じ方を提示していくことで、身につけさせていくことができるのではないかと思います。(仲間からのアドバイスも大きいと思いますが)
ではこれはどうやってするのっていうと、それは受験指導(結果ではなく、過程)の中でもできるし、スポーツ指導の中でもできるし、外部の社会体験カリキュラムでもできると思いますが、先生・指導者がそういう体験の中のいくつかの局面の中で、それぞれの生徒に何を掴んでほしいか明確に決めて生徒に関わっていくこと(まぁ、こういった体験を通じて生徒が何を掴むか、何を気づくかは生徒それぞれですが、でも大きなくくりの中で先生・指導者が「何を掴んでほしいのか」ということをイメージしていることは必要)や、こういった指導の過程の中で、生徒が壁にぶつかり、プラス~マイナスに揺れる中で、壁の乗り越え方のきっかけや、それを乗り越えるための見方・感じ方を提示していくことで、身につけさせていくことができるのではないかと思います。(仲間からのアドバイスも大きいと思いますが)
そういった体験は、その時、壁を乗り越えられたという一時のものだけじゃなく、社会に出てからも貴重な体験として生徒の心に残り、社会で何かがあったとしてもその時の体験がリファレンスになるんじゃないかと思います。
2つ目は、
自分の今までの道のりや今までの体験や経験を元に、自分を知り、自分はどういう人間であるかを理解し、将来に繋がる自己イメージや自分の活かし方のイメージを身につけてほしいということです。
まずは自分を知り、自己理解を深めることによって、自分らしさとか自分の強みとか、自分の大事にしているものとか、自分の成功パターンとか、そういったもの自覚するが第一段階になります。(気づきを与え→本人の中でそれを確定させる)それができたならば、それを活かした自分の方向性を模索したり、現実の社会の中で、自分らしさの活かす、活かし方のイメージを身につけてほしいと思います。
1つ目についても2つ目についても「やる気を引き出す」ことにも有効だと思います。
この取り組みを受けた生徒たちが何か1つでもこれから先の人生にとって意味のある気づきを得られれば、それだけで十分だと思っています。
これは生徒たちだけではなく、先生・指導者たちにとっても、こういう取り組みを通じて生徒個々のことを深くまで理解できるようになりますので、生徒指導の面、さらにいうならば生徒個々の能力を引き出す指導という面で非常に大切な知見を与えてくれると思います。
そして、こういう取り組みを受けた生徒たちの最高のストーリーは、
・自分が何をしなければいけないのか、自分にはこういう思いやこういう強みがあるんだからそれを活かしてこういうことをしたいという目的意識が生まれる(目標を持つ)、前に進もうとする姿勢が生まれる→自律的に学習できるような行動変容が起こる→いろいろな困難な状況もある中で、自分で考え何をやるかを決め、1つ1つクリアしていく→壁にぶつかっても新しく得た見方・感じ方を軸にいろいろな局面を乗り越えていく→そして自分が自覚している自分らしさや自分なりの成功パターンを信じて目標に到達する→それを今後の人生においても繰り返していく→幸せな人生・社会での成功
1つ目についても2つ目についても「やる気を引き出す」ことにも有効だと思います。
この取り組みを受けた生徒たちが何か1つでもこれから先の人生にとって意味のある気づきを得られれば、それだけで十分だと思っています。
これは生徒たちだけではなく、先生・指導者たちにとっても、こういう取り組みを通じて生徒個々のことを深くまで理解できるようになりますので、生徒指導の面、さらにいうならば生徒個々の能力を引き出す指導という面で非常に大切な知見を与えてくれると思います。
そして、こういう取り組みを受けた生徒たちの最高のストーリーは、
・自分が何をしなければいけないのか、自分にはこういう思いやこういう強みがあるんだからそれを活かしてこういうことをしたいという目的意識が生まれる(目標を持つ)、前に進もうとする姿勢が生まれる→自律的に学習できるような行動変容が起こる→いろいろな困難な状況もある中で、自分で考え何をやるかを決め、1つ1つクリアしていく→壁にぶつかっても新しく得た見方・感じ方を軸にいろいろな局面を乗り越えていく→そして自分が自覚している自分らしさや自分なりの成功パターンを信じて目標に到達する→それを今後の人生においても繰り返していく→幸せな人生・社会での成功
こうなっていくんじゃないかと思います。こうなったら本当に理想ですよね。
また、1つ目についても、2つ目についても、そういったことを自分の言葉で明確に具体的に話せる生徒、こういうことを体験から身に付け自覚した生徒(言うなれば、体に染み込む→言語化して理解→腹落ちする)は、これから社会に出てからも強いし、生きていく上でも強いと思います。多分企業側から見ても輝いて見えると思いますし、明らかに他の生徒とは違って映ると思います。
あっさり書きましたが、先生・指導者の方等がこれをやろうとすると、人と真正面から向き合わなければいけません。構えも必要です。従って、非常にパワーがかかる難しいことを要求しているとは思いますが。
私も、なんだかんだで、どうやって学生を育てよう、成長させようと真剣に考えているわけで、とりとめのない文になってしまいまして、すみません。
こういったことを、いつの機会かに、いろいろな方とじっくり意見をぶつけてみたいなとも思っています。
最後に、多くのプロサッカー選手を育てた大瀧監督と教え子の対談を紹介して今回のコラムは終わりにします。(テレビを録画して、話しをしている内容を一生懸命文字に落としました!)
大瀧監督の指導スタイルは一貫してますね~。
『俺は一人も育ててねぇ』(テレビ番組)内の
~受け継がれる清商魂~
の中で話されていたことの抜粋。
『
藤田「僕の高校生活って3年間ですけど、今ここで振り返っただけでも、たかが3年間だけど、その3年間ってただの3年間じゃないなっていうのは簡単に分かる。
(中略)高校の時に教えてもらったことは基本ベースになって話しが始まる。」
藤田(大瀧先生に対して)「ずっと怖い存在でいられるって、なかなかないですよね。だって根性いるでしょ。だって人間だから怒りたくもないし、(中略)いい人になりたいから。どっちかっていえばそっちに行きがちになるから、でもここで言わなきゃいけないことはあるなっていったときに、バッって言い切らなきゃって思うけど、全部が全部できるかって言われたらできないですもん。ずっとそれをやり続けるってなかなかできないよ!」
大瀧イズムとは
藤田「清商に来て、全国大会で勝つ俺たちがいると思ってやっているから、俺らは勝つと思ってやってるから!なんで勝てるかとか言われても俺ら勝ちに来たんだとしか思ってないから、そのメンタリティーが違ったと思う。俺たちが一番になるっていうくらいそういう感覚で毎日やるのと、行けたらいいなとか行きたいとかは違うから。小学校から試合は勝つ、全国大会に出たら優勝する、知らないって怖い。知らないでそこを疑わずに行っちゃうってああいうのある意味、パワーを引き出す。」
大瀧「がんばる!どんなことがあってもがんばっちまう!とにかく前に行く、あのゴールを取りに行くんだ、粘り強さとかがんばりは、そうそう人に真似できないから。(テクニックの動作をしながら)これはいつでも真似できる実は。でもああいうがんばり、ゴール前の粘りはなかなか人様には真似できるものではない。」
藤田「やっぱりそういうもんなんですね。」
藤田「プロになって、何が大事っていう話しになるんですよ。でもね、根性っていうんですよ。古っていうのあるじゃないですか。お前根性っていうの今更って。でも俺ら最終的に何が大事って根性だよなって。だって、清水に育ってうまい選手っていっぱいいたじゃないですか。とんでもないうまい選手、僕から見てもいっぱいいたけど、ふっと振り向いたら横とか向いたら、うまい選手って結構いなくなっちゃったりしている。結構残っている人達を見ると案外一番上よりちょっと下にいる人達ばっかりいるなみたいな。どっかでもうちょいだな、もうちょいだなと思う人ばっかりいる。おもしろいね、こういうことって。(中略)俺も精神論なんて大嫌いだった。精神論よりも俺は技術・技を磨きたいってずっと言ってきたけど、年々あれって思って、あれあれっていううちに、みんなで話す時は根性だよなって。」
大瀧「そういう言葉が出てくるとは思わなかったな~。」
大瀧「技術とか戦術とかっていう話は実にかっこいいんだよ。サッカーっていうのは体をぶつけ合うスポーツだから、そこに1ミリでも1センチでも相手より前に出ようというのは気持ちでしかない。」
藤田「一概に根性っていうとそれだけかもしれないけど、心を磨くっていうか、心がきちんとしてないと、ダメだなって。よくよくテクニック、テクニックっていうけど、意外に試合の中でそんなめちゃくちゃテクニックなんか使えない。本当に基本的なプレイしか意外に使えなかったりするから、基本的なプレイをどれくらい確実にできるかっていう方が俺たちには大事だったりした。」
大瀧「本当に大事なのはコントロールはボールコントロールじゃなくて、(胸をたたきながら)ここのコントロールなんだよ。このコントロールの経験のない人はやっちゃいけないんだよ。」
藤田「先生、やっぱ、僕らが集まって根性だよなっていうのは、なかなか僕らもきちんと吸収したっていうことですね!」
最後に画面に向かって
藤田「根性ですよ、根性!」
』
「ツッチー ノボリ 名波のサッカー王国静岡を考えよう」(テレビ番組)内の
安永聡太郎氏(元清水商業サッカー部)が大瀧監督(清水商業サッカー部監督)にインタビューしていたときの話しの内容の抜粋
大瀧「親にできないことをやらにゃあ。預かった以上は、親にできないこと、ダメなことはダメってはっきり伝えなきゃ。ダメなことをいいよ、次頑張れよって次はねぇんだぞ、俺たちの世界は勝負だから、負けてゴメンね、次もう一回やらせて下さいなんてとてもお願いにいくようなスポーツじゃない。勝つか負けるかのしのぎを削っているんだから、ここで一発きちっとした勝負が出来る子を育てたいわけ。」
こういう一連のやり取りを聞いていると、大瀧先生の生徒に何を掴んで欲しいかというのがわかりますし、それを中心軸においてぶらさず指導している姿がはっきりと見て取れます。そしてそういう姿勢が結果的に教え子にメッセージとして体の中に染み込まれているのもわかります。
注①・・・・・【受験競争が過熱する仕掛けの補足】
「日本のメリトクラシー 構造と心性」(東京大学出版会1995年 著者:竹内洋)
第2部経験的分析 第3章受験と選抜より
●学歴とは
『(中略)学歴の社会経済的地位達成機能が格別大きくはないという証拠を示したところで、日本人の意識の世界から学歴社会というイメージは払拭できそうにはおもえない。この点については、臨時教育審議会の学歴偏重社会をめぐる論説の揺れに端的にあらわれている。臨教審第二部会は学歴社会の検討をして、所得や採用、昇進といった職業生活にかかわる面で日本が「必ずしも学歴を偏重しているとは認められない」という結論に達した。にもかかわらず、第一次答申においては、「学歴が偏重されている社会」と学歴社会を肯定するに至った。この揺れこそ日本の学歴社会の特徴を示している。たとえ学歴の社会経済的地位達成機能は大きくなくても、学歴は人々の「まなざし」のなかで「プライド」や「貴種」として作用しているからである。つまり有名大学を卒業していることは、人々の「まなざし」のなかで、「人間としての基本的価値が高い」ことや「社会的毛なみの良いこと」、「貴種」であることを意味する。これは学歴の象徴的価値といえる。』ほかにも学歴の機能的価値も言及し受験競争過熱の構造を紹介しているが、今回は学歴の象徴的価値の記載のみにします。
学歴の象徴的価値を考えるときにイギリス社会の階級概念を合わせ鏡にした記述の中で
『(中略)むろん日本でも「かれ(彼女)は家柄がよい」ということもある。しかし「労働者階級出身だが社長になった」というような階級用語の使用頻度は少ない。われわれは少し異なったいいかたをする。「高卒だが大企業の重役になった」とか「東大をでていないのに、東大教授になった」とかのいいかたをしないだろうか。日本社会においても階級へのまなざしがないわけではないが、その視線の力は弱い。イギリス人が他者の出身階級に敏感だとするとわれわれは他者の学歴に敏感なのである。階級意識的社会というより学歴意識社会といえる。階級意識社会のイギリスが他の産業社会から較べて社会移動が少ないとは必ずしもいえないように、学歴意識社会と学歴の社会経済的地位達成効果が格段に大きくないことはなんら矛盾しない。しかも帰属的地位である出身階級とは異なって学歴は獲得的地位であるから、(獲得)競争が激しくなる。』
●大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛け ~傾斜的選抜システム~
『(中略)日本では「学力によって序列化されているのは一握りの学校にとどまらない。すべての学校が序列化されている。したがって15歳の日本人はできるだけよい学校に入学しようとする誘因にとり囲まれている。」こうしたことは高等教育についてもいえる。(中略)日本の高校や大学の総序列化は特異なものである。(中略)むろん、日本のすべての高校がこうした「輪切り」選抜体制におかれているわけではない。小学区制や総合選抜制などによって公立高等学校に学校ランクが発生しないようにしている地域もある。しかしこういう地域ではしばしば私立校が偏差値で序列化されているから公立高校も偏差値序列化に組み込まれてしまっている。また大学入試においては微細な偏差値によって大学が序列化している、したがって細かな学校ランクによる傾斜的選抜システムを日本の教育的選抜の特徴とみることができよう。
こうした傾斜的選抜システム社会においては合格可能性を知るために模擬試験などが日常化し、事前選抜が制度化しているから、選抜以前にアスピレーションが冷却される。「自己排除」や「追放」などの暗黙裡の選抜や予期的クール・アウトは、階級文化によってよりも事前選抜によっておきているわけだ。
しかし、事前選抜の制度化を冷却とだけ結びつけるのは皮相的な見方である。たしかに生徒が模擬試験などによって偏差値55と知らされたとき偏差値68とされる学校への志願は諦めるだろう。しかし頑張れば偏差値60の学校に進学できるのではないか、というように却って煽られるのだ。(中略)焚きつけの作用は偏差値上位者だけにとどまらない。中位者や下位者についてもおきる。(中略)某県の輪切り選抜体制下にある中学三年生に対して「模擬試験の結果(偏差値・順位)を見たときに、どのように思いますか」という質問をし、その結果を成績別にクロスしたものである。成績がさがるほど、「競争意欲が弱まる」や「何も感じない」の割合はふえていくが、それでもいずれの成績のカテゴリーにおいても「競争意欲が強まる」という者がもっとも多いことはかわらない。受験生も偏差値をみて、冷却されるのではない。志望を縮小されるという鎮静のあとに自分なりの目標にむけて再び焚きつけられていることが確認される。構造的には、傾斜的選抜=偏差値受験社会は、諦めをもたらすのではない。諦めを迂回しながらの焚きつけのテクノロジーを潜めている。』
●大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛け ~層別競争移動~
『(中略)トーナメントからの逸脱は日本のトラッキング(高校ランクと大学ランク)が小刻み(輪切り)だということにある。他の条件が等しければ、それぞれの時点の選抜の目盛りが大きい場合よりも小さい場合のほうが次の選抜で追い越しや追い越されの逆転がおきる確立が増す。しかしいま他の条件が等しければといったように、小刻みなトラッキングがただちに敗者復活の機会を増やすわけではない。さまざまな制度的要因に支援されて小刻みな選抜という選抜様式が敗者復活の契機になる。
こうした制度的要因として最初に挙げられるのは大学入学者選考方法である。(中略)一般に日本の大学入学者選考は出身高校や高校の達成(成績)を選抜の要因に使用しない。過去の経歴や達成のシグナルによる雪だるま効果の発生はあらかじめ排除されている。日本の教育的選抜は過去の達成の御破算主義によっている。推薦入学の場合のように過去の達成を選抜に使用したとしても学校間格差を考慮する成績調整をほとんどおこなわない。高校の選抜結果は御破算なのである。こういう御破算主義的大学入学者選抜方法のなかで小刻みな選抜様式が純粋トーナメントからの逸脱をもたらすことになる。
トーナメント移動を逸脱させる制度的要因の第二は、日本の場合、小刻みなトラッキングが学校間に外部化していることによる。アメリカではトラッキングは、差異的学習機会などによって初期の学力格差を拡大するとして批判されるが、日本の学校間格差は必ずしも不平等の増幅装置とはいえない。いえないどころか敗者復活の装置にもなる。トラックが学校単位になっており学校間競争(トップ校に追いつけ、三番手の高校に追い越されるな)がおこなわれているからである。学校間競争といってもあらゆる高校がトップ校を競争対象にするわけではなく、学校ランク3位の高校は学校ランク2位の高校に追いつき、学校ランク4位の高校に追い越されないようにするというような分相応競争ではあるが、それだけ学校間競争が熾烈である。こうして日本型トラッキングはラベリング効果による学習機会の不平等を抑止する。抑止する以上に日本型トラッキングはリターン・マッチを活性化する傾向がある。このことは、教育的選抜における加熱と冷却の作動に日米の差異によってみることができる。ローゼンバウムは加熱は上位トラックにおこり、冷却は下位トラックにおこるというが、日本では、学校ランクでかなり低位にある高校の冷却を例外として事情は異なっている。日本では加熱と冷却がトラック間に作動するのではなく、トラック内部に生じる。トラックが学校単位になっているから、トップの高校においても成績下位の者には押し下げ効果によって冷却が作動する。押し下げ効果とは、絶対水準で学力が高くても所属集団が学力の高い集団で相対的に下位になることによってクール・アウトされてしまうことである。逆に二番手、三番手の高校であろうとも成績上位者には押し上げ効果が生じ加熱が作動する。押し上げ効果とは絶対水準の学力でかならずしも高くなくとも所属集団内での相対的位置では高くなり、加熱効果が作動することである。所謂フロッグ・ポンド効果である。(中略)こうしたトーナメント移動からの崩れは「層別競争移動」と命名できる。ここで層別という限定詞をつけるのは、三番手の高校生が、トップ校の高校生のトップグループに追い付くことは少なく、あくまでトップ校と二番手校の間だけの競争移動だからである。しかし、二番手校と三番手校も、三番手校と四番手校も競争移動状況にあるわけだから、層別競争移動はエリート・トラックに限定されないことと、その境界は相互に入りくんでいて断層がないことにも注意したい。層別ではあるが、追い越されたり、追い越したりの可能性が開かれているわけだ。傾斜的選抜システムや層別競争移動という選抜システムの特徴こそ大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛けである。』
「論争・東大崩壊」(中公新書ラクレ 2001年 著:竹内洋+中公新書ラクレ編集部)
メリトクラシーの大衆化を語る上の重要な、日本の入試の選抜の基準についての記載がある。それも合わせてみていただくと、さらに深く理解できると思います。以下抜粋
『(中略)一般に高校入試や大学入試では、論述式の問題より選択式の問題のほうが多い。そういう問題はある意味では、努力して知識を獲得すれば何とかなる問題である。ところが、口述試験とか論述式の試験では努力しただけではなかなかうまくいかない。要するに、言語的なセンスとか論理的な構想力といった象徴的シンボルを操る力が影響する。
たとえば、フランスのグランゼコールと呼ばれるエリート校に入るためには口述試験を通過しなければならない。この口述試験では、どういう語彙を持っているか、どのように発音をするのかも評価されるという。イギリスの大学入試での論述式の試験が多い。したがって語彙力、要するに家庭の中でどういう言葉を使っているかが影響として出やすい。
それに比べると日本の入試は、一般的に言って特定の階層の文化に偏っていない。ある意味ではだれでも接近可能な知識を入試問題として出題している。業績の判断基準の中身である試験の内容自体が階層に偏ってないという意味で大衆的なのである。』
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