2012年7月21日土曜日

「同級生交歓」(本の紹介)

「同級生交歓」(20067月 文春新書)は月刊「文藝春秋」の「同級生交歓」というグラビア記事の50年分が1冊の本になったものです。最近、本になっているのを知り、昨日購入しました。
ブックカバーには『人の一生を左右するのは校風か、学歴か、友人か。意外な組み合わせ、納得の顔ぶれが並ぶ百組の誌上同窓会。月刊「文藝春秋」の名物グラビア50周年記念の忘れ得ぬ一冊』と書いてあります。こういう特集がまとめられて本になるって貴重ですよね。

中を見ると、最初に坪内祐三氏(評論家)がこの「同級生交歓」について語っています。
その中で『(中略)私は、そこに文化人が混じる回を好んだ。それでこそ「同級生交歓」の本来の伝統だと思った。それは旧制と新制の違いとも言える。旧制高校に代表される、かつての日本の教育制度は、単なる受験秀才ではない(むしろその手の秀才は馬鹿にされる)、もっと幅広い知識や教養と持った人材を世に送り出した。だから旧制中学や旧制高校の同級生には、政治家や財界人や大学教授といって社会に有為な人たちばかりでなく、作家やジャーナリスト、俳優、画家、音楽家といったバラエティーに富む人たちが顔を並べる。しかもそのバラエティーの中で、その学校の独自のスクールカラーやあるいはローカルカラーが確かに感じられた。それが「同級生交歓」の醍醐味だった。』という記載が印象に残りました。確かに、こういった幅の広さっていうのがカラーを作っているとも思うし、そういうものが感じられるっていうのが、名門なのかなって思いました。(また、多様性を容認する雰囲気、自分とは違ういろいろな人間を認める環境、そしてそれができる余裕があるっていうのも重要だと思いますね。昔ほどではないにせよ、私達の頃は、まだその部分は残っているような気がしますが。)

さて、中身は、公立小・中学校編、名門小学校編・旧制中学・女学校編・新制中学・高校編、旧制高校・新制大学・その他編と分かれて学校毎に掲載されています。
番町小→麹町中→日比谷高校→東大が私の父の時代はエリートコースといわれていたようですが、その番町小学校も出ていたことにびっくり!旧制高校も出ているのもいいですね~。写真を見て、学校を通じた人と人との関係性を感じるもの楽しいですよね。

ただ、ざっと眺めてみると、東京の学校が多く、地方の学校が少ないのが少々がっかりしましたが・・・。


私は特に高校に興味があるので
掲載されている高校(掲載されたままの校名で記載)は、というと、
東京では言わずとしれた府立一中(現・日比谷高)をはじめ、五中(現・小石川高)、六中(現・新宿高)、十中(現・西高)、第二東京市立中(現・上野高)、都立立川高、都立駒場高、北園高など、国立でいえば東京高師附属(現・筑波大学付属高)など、私立でいえば麻布、開成、慶應など、地方に目を向けると、旧制盛岡中(現・岩手県立盛岡一高)、旧制水戸中(現・茨城県立水戸一高)、旧制北野中(現・大阪府立北野高)、旧制高津中(大阪府立高津高)、旧制神戸一中(現・兵庫県立神戸高)、旧制姫路中(兵庫県立姫路西高)、旧制城東中(現・高知県立高知追手前高校)、宮城県立仙台一高、神奈川県立湘南高、京都府立鴨沂高など。いずれも名門中の名門ばかり。しかも凄い顔ぶればかり。(昔の人の方が、スケールが大きかったのかなと思ってしまうくらい。)

上野高校でアラーキーさん(荒木経惟氏)と立花隆氏が同級生っていうのを見て、エッジがたってる人を輩出しているな~と思いました。それが名門である所以なんですけどね。(上野高校ってどんな人が出ているのかとウィキペディアで調べたら、小椋佳氏や俳優の故渡辺文雄氏など多士済々。なるほどな~)

どの人とどの人がこの学校で同級生なんだってことを知るのもよし、そういう中でその学校のカラーを知るのもよし、昔を懐かしむのもよし、いろいろな読み方があると思いますが、いずれにしてもじっくり読めば読むほど、味わい深い本だと思います。
ただ眺めているだけでも楽しいです。

是非、手にとってご覧ください!

2012年7月19日木曜日

「高校と大学の接続」入試選抜から教育接続へ (本の紹介)

「高校と大学の接続」(玉川大学出版部20052月 荒井克弘・橋本昭彦 【編著】)という本の紹介をしたいなと思っています。実は、私、この本を手にとるのは久しぶりなんです。
2006年くらいに読んだ本なんですが、今見ると、かなり読み応えのある本で、当時、よく読みきったな~なんて思っちゃいます。

この本のブックカバーにはこのように書かれています。
『大学の収容力が低いころには大学への受験競争が教育の牽引力の役目を果たしていたが、高等教育に多くの人々が接するようになった今日、初中等教育の中身を確かなものにし、高校と大学の関係から大学入試を考えることが肝要になってきている。教育を充実させるステップとしての入試選抜に代わる新しい形態を教育接続と呼べば、それはどのようなシステムなのか、各国の高校と大学の接続問題から探索する。』と。

さらにこの本の目的として、「はしがき」の中に
『従来であれば、大学入試、入試改革の問題として扱われたであろうテーマが、最近は「高校と大学の接続」の問題として表現され、論じられることが多くなった。大学入試の問題が解決されたというわけではない。関連する問題の範囲が広がったのである。ひと言でいれば「大学入試の大衆化」である。その影響は初等中等教育、高等教育を含めて教育システムすべてに及ぶと考えねばならない。従来の大学入試の問題とは別の新しい教育問題としてこれを把握し、改善に向けて的確な対応と努力が求められている。本書は当該問題の背景、諸外国の取り組みの事例などを検討して、問題の理解を深め、解決の方向を示すことと目的とした』と書いてあります。そんな感じの本です。

この本を改めて今回ざっと目を通した中で私個人が印象に残ったものを感想も交えて3つピックアップすると、

①アメリカでは1990年代に入って、新しい入学選抜制度を導入する州がでてきたが、その根幹となる能力はコンピテンシーまたはプロフィシエンシーという概念で捉えている。実際に発揮された「行動」に着目する能力観である。さらに多項選択方式中心のテストから新評価法を取り入れるようになった。要は、生徒の学習の結果ではなくプロセスに注目し、学習の過程そのものを評価しようとしていることである。これは従来からの反省を下に、考え出させた能力観であり評価法である。「行動」に着目するとか、アメリカ的でなかなか興味深い取り組みだと見ている。

②ノースカロライナ州においては、高校コミュニテイカレッジ高等教育機関というルートが確立しており、高大間をスムーズに接続させる役割を果たしている。この柔軟な体制は、大学への接続点を入試の1点にしないことによる機会の拡大と、中・低の学力層の学力改善にもつながっているということにおいて評価できると思う。それも大学と高校の評価を共通化させたことにより可能となったことであり、参考にするべき事例と思う。

 
ドイツのように、アビトゥーアの試験を取得してもすぐに大学に進学しなくてもよいという柔軟性は、大学入試が資格試験化していることで可能となることであり、しかも、それだけ個人の専門性ということを重視した社会だからこそできることなのであろう。将来を考えるという意味においては、入試合格即入学ではなく、一定期間社会に出て物をみる又は自分を見つめなおすことによって、その後進学の動機もより強固になるであろうし、そうなればその後の高等教育への参加も実りあるものになるのではないかと思う。
最近では東京大学が導入を提唱している「学部生全面秋入学構想」に付随する部分で、春の入試はそのままで入学は秋、となると半年間の「ギャップターム」ができると、そしてその期間をどう過ごすのかっていうことが話題になっていますが、半年ではちょっと将来を考えるとかそういった意味では短いような気が・・・でも少しずつ日本も変わりつつはあるとは思う。
いずれにせよ、
序章、第Ⅰ部高校と大学の接続、第Ⅱ部アメリカの高大接続、第Ⅲ部各国の高大接続に構成となっており、高大接続問題を考える上で本書は非常にいい文献だと思います。

アメリカの高大接続では具体的な事例が詳細に紹介されていて、本気でこの問題を考えている方には、興味深い記述も多くあり、また重要な視点を与えてくれると思います。また個人的に面白かったのは各国の高大接続の中の特にフランスとドイツの内容で、そこだけでも読んで欲しいなと思っています。

※さて、フランスの教育については
『フランスの教育に見る、教育の現実』(アゴラ 言論プラットフォームより)のコラムもご覧になると面白いと思います。フランスの大学入試資格試験(バカロレア)の実情に始まり、グランゼコールに関すること、教育格差について等にまで話しは及んでいます。興味深い内容です。

流されてしまう自分を奮い立たせて想いを実現したい!

ちょっと前のお話ですが、新幹線も最終近くではあったんですが品川駅の改札付近で異様な人垣ができていて
人垣がさらに人を呼ぶ感じで異様な盛り上がり!
でも、なんで集まってるのか聞いても、ほとんど誰も知らない、
それなのに、人がいるから、なんかあると思って、1人また1人と、どんどん増えていく!僕も、どうせなら先頭にいようと思って、先頭に立って待っていました。
「きゃーという歓声」で誰だ誰だと思っていたら、
ようやく、真打ち登場!
なんとEXILEでした!EXILEが新幹線から降りて改札を抜けるのを待っていたんですね!

こういうのって、すかされる事が多いんですけど、本物でした!

品川駅はアクセスいいせいか、結構芸能人に会うんですよね!
今までも、キムタク(11月なのに、半袖・・さすがと思いました。)、チュートリアルの徳井、ブラマヨの吉田、フットボールアワーの後藤、おぎやはぎ、モモエリ、フジテレビのアナウンサーなどなど、いろんな人を見かけましたよ。
特に、僕が会えるなって思った場所は、品川駅の新幹線ホームの8〜10号車(グリーン車)が停車する付近の椅子や喫煙場所ですね。そこらへんをうろうろしていたら、会えるかもです。

それはそうとして、
やっぱり、こういうのを見ていても、人って流されやすいもんなんですよね。みんながいるところに流されてしまう、孤独を恐れるというか、自分の意思がないというか・・・

会社なんかでも、会議なんかすると、なぜか多数派の意見に流されてしまう。もしくは、自分がちょっと周りと違う意見だと感じると言うのをやめてしまう・・・・
でも、みんながいいっていうから正しいとは限らないんですが、どうしてもそうなってしまう。

ビジネスで何か新しいことを進めようとしたときなんか、「これだ!」っていう正解はない訳じゃないですか。それでも、正解がない中でも、戦略とか進めていかなければいけない。そういう時こそ、周りがいいっていうからとか、これがベストだと上が言っているからOKで、なんとなくそのように動いてみるとかではなくて、自分が真剣に考えた上で、たとえ周りとは違う考えで少数派だなって思ったとしても、そこに明確な自分の意思・想いや何がしかの理由があれば、どんどん考えをぶつけるなりして、自分を信じて推し進めていかなければいけないなって思っています。だって、その時点では正解なんて誰もわからないわけですから。
周りに流されていたら、間違った方向に行ってしまうかもしれませんからね。あとでそれに気づいて、あの時、そうしてたらよかったって思っても遅いですからね。

ヒット商品だって、最初からヒットすると思って世に出すことなんて、ほとんどないだろうし、「これをヒットさせるんだ!」とか「いい商品だと思うからみんなに使ってほしい」という商品への愛とか、そういったそれぞれの意思・想いが大切なわけで、そしてヒットさせるために、顧客目線で試行錯誤を繰り返してやっていくわけだし、そしてそれがいずれ顧客の支持を受けたり、時流に乗ったりしてヒットするわけで。

そんなこんなで、
たとえ、最初は周りから支持されず、孤独な戦いを強いられても、自分がこうしたい、こう思うっていうことがあって、自分の意思や志が明確であるなら、思い切ってやる勇気が欲しいものです。
僕も、全くできていないので、こういう風に志そうって、自分にも言い聞かせながら書いています。  そして近い将来、想いを形にできたらって思っています。

2012年7月16日月曜日

教育の未来予想図

特に高校の教育ってこれからどうなっていくんでしょうね。

私は10数年前は、どんな形でも第一志望に合格させる、より偏差値上位の大学にいれる、学力・進学実績を伸ばす、それこそが求められているものだと思っていました。そのために、受験に向けた勉強法をどうしていくのか、とか、小論文・AOで上位大学にうまく入学できるのであれば、どうやってその力を付けさせるのがということが興味の対象でした。
(すっごい進学校を作りたいという夢みたいなことを語っていたこともあったなぁと)
今、世間を見渡してみると、どの高校もそういう流れになっています。
今になって進学を目指すといっている学校もありますが、それは~ちょっと遅いすぎる感がありますがね。

しかしそんなことを思っていた私がここ数年で考えがちょっと変わってきています。よくこのブログでも書いていますが、大学の価値も相対的に低下してしまっているように気がする今、どこの大学に入学させるか、要はどういった受験対策をするか、どういった勉強法をするのか、受験テクニックはどうだとか(受験!受験!勉強!勉強!)ということよりも、もっと根っこの教育の方が重要だと思ってきています。(私のブログの後半を参照:今の学生に身につけてほしいと思うもの)←私が考えていることの一部を記載してます。
例えば、やる気を引き出す教育とか、生きていくうえで大切な能力を若いうちから身につけるとか、そういったものが大切だと思っています。(大学合格を最終到達像にするのではなく、もっと先を見据えた教育としたい、そういうことをはっきりと頭に置きながら学校での教育活動1つ1つを考えていきたいと私自身が強く思っているのでそう思うのだと思いますが)
これを養うため・身につけるための1つの機会として受験勉強(あくまでいろいろな体験ができる機会がある中で、受験もその1つの位置づけとして考える)を頑張るとかならばOKだとは思います。
そして、こういった部分で確実に成果を残した学校が未来生き残るのではないかと思います。(例えばやる気を引き出す教育をやった成果として進学実績が向上した、第一志望合格率が向上したとかならOKだと思うし、それこそ成果だと思います。進学実績が伸びれば世の中的なニーズにも応えることができるので理想的ですし。でもあくまでやる気を引き出す教育をしたうえで、というのが大前提ですが。もっともっとやる気を引き出す教育をやることで今以上の進学実績の向上は十分に可能だと思っています!!できます!)
但し、言うのは簡単ですが、やるのは非常に難しい。どういったプログラムで行うのかといったことも考えなければいけませんし・・・それ以上に、こういう教育ができるように、先生・指導者たちが生徒に対してのどういった構えで相対したらいいのかとか、どのように関わっていったらいいのかということを本当の意味で理解し、体で身につけ、そして実行することができるようにならなければいけない(生徒の根幹をなす「らしさ」「強み」をどうやって見出し、さらにそれを真正面から見つめていくためにどうしたらいいか、相手の立場に立ってコミュニケーションするとはとか、生徒の可能性を信じる姿勢を持ち続けるための構えはどういうものなのかとか等々)・・・そういうことが大変だと思います。また一朝一夕で身につくものではありませんので、日々フィードバックミーティングを重ね、クオリティを高め続けていくこともしなければいけません。だから非常に大変なのです。しかも、学校として組織としてやると決めるのにも相当な覚悟が必要だと思います。(覚悟がなければできません。)大変なことばかりですが、逆にこれがしっかり確立されていないと、こういった教育は本当の意味で成り立ちませんし成果も出ないとは思います。でも、本気で取り組みものとしては非常に価値があるもの、非常に意味のあるものですし、本当にこれが確立できたら無敵だと思います。

今までの展開を見ていると、私がそう思ってから何年後かにそういった流れになっているので多分、いずれこの流れが来ると思っています。

※今、学校が予備校化している、そんな状況の中で、学校の本来あるべき姿が失われてしまっている気がします。こういった取り組みの方が、なんか本来の学校のあるべき姿のような気がしませんか?こういう学校を本気で目指すことで、ブレークスルーできるような気がします。

流れといえば、実は、出身高校で地頭を見ようということも20年以上前から私は言っていました。そして2000年以降そういったことが巷で言われるようになりました。
名門高校にフォーカスして何かやりたいなっていうことも15年前くらいから思っていましたら、2005年あたりからそういった流れが来ました。

やはり、関心が高い領域、私でいうところの教育というものを過去~現在と定点観測していると、そういった臭覚というものが研ぎ澄まされてくるようで、未来が見えてくる気がします。

ただ、今までは、こういうことをしたいとか思っていても実行しませんでした。もっといえば、実行できませんでした。でもこれからは、自分が感じたこと、思ったことは実行しようと思っています。後悔したくないですし、自分が思ったことは、絶対、将来、時代が要請してくるものだと信じていますから!
できることならば、こういったことを研究・実践できる環境に身を置きたいなと思っていますがこればかりは縁ですからね~。ただ、私は方法論は持ち合わせているのでこういったことが実現できる環境に行きたいとは思いますね、本当に。

さて、私の未来予想図は正しいのでしょうかね?それは5年後10年後に分かることですね~

高校⑥母校のカラーが薄まっている・・・・??

私の出身高校の静岡県立静岡高校は野球がとても強いんです。今年も春の県大会に優勝して、夏の静岡大会は第一シード!
昨年夏も甲子園に出場したわけなんですが、その甲子園でのことに関係するエピソードを今日はご紹介。
最近知人から聞いた話で知人もまた聞きのようなので真偽の程は不明ですが。

昨年の甲子園夏の大会のこと。我が高校の甲子園での試合をOBがテレビで見ていたようなんです。そうしたら、
多分、テレビに映る応援席の後輩たちの姿を見たんでしょう、それを見たOB
「他の普通の高校生を変わらないじゃないか!」といってクレームをつけたらしいんです。
ほぉ~何で何でって感じですが。
しかもそういったクレームがそのOB以外にも複数あったらしいです。(多分、高校のOB会にクレームを言ったと思うんですが・・)
OBが母校の学生にどうあってほしかったのか、今の学生に何を期待していたのか、何を思ってクレームを言ったのかわからないんですが。
ただ単に、お行儀が悪いとか、そういった表面的なことでクレームをつけたならば面白くもなんともないんですが。
もし、自分たちの高校時代と比べて、もっと内に秘めた何かがなくなっていると感じたとか、何かしらの高校が持つカラーや「らしさ」が薄れているとか感じたからクレームをつけたのであれば、もっと突っ込んで聞いてみたいな、核心を聞いたみたいなって思います。

自分の母校のカラーというと、
実は、私も、10年くらい前であれば、自分の高校の後輩だって聞くと、「おお!そうか!そうか!何期なんだね?」とか聞きながらものすごく親近感を感じたのですが、最近は若い子が自分の高校の後輩と聞いても昔ほど響かなくなりました。(もっというと、あっ、そうなのくらいの他人行儀な対応になってしまうくらいです)
昔は、自分の高校の出身者かどうかって、初対面でも会って話しをすると直感的に(ビッ!ビッ!ビッ!とくるというか)私は分かったんですよね、話し方とか雰囲気とか、五感を働かせると。同質性を感じるというか。まさにハビトゥスと言葉に集約される感じです。でも在校生を含めて、最近の若い母校の後輩を見てなんとなく変わってしまったな、静高生に伝わってきた無形の文化資本というのかハビトゥスが失われているというか薄まっているというかという感じを受けるし、さらに、小さくまとまってしまっているなって感じてさびしくなるんですよね。多分、そのせいで後輩と聞いても響かなくなったんでしょうけど。
私の感覚では絶対に母校のカラー、静高らしさは薄まってしまっていると思います!!

しかし、もし本当に高校のカラーが薄まっているとしたら、何が原因なんでしょうね~
高校のカラーが薄まっているのかそうでないのか、というのを感覚ではなく事実をベースに検証しはっきりさせた上で、原因分析なども行って、最終的に言語化できると何か新しいものが見えてくる、教育に一石を投じることができる何かが見つかるかもしれませんね。さらにそれに基づいてまた何か教育に関連する新しいものを生み出すことができるかもしれませんね。
もっともっとこういったテーマも突き詰めていきたいと思ってしまいます。

2012年7月12日木曜日

文教研れぽーと【紹介】

河合塾に、河合文化教育研究所(文教研)というものがあるのですが、そのサイトの中の
『2006年春の文教研れぽーと』で牧野剛先生が書かれた「進行する二極化現象―理解状況や成績をめぐってー」を非常に興味深く読ませていただきました。私たちが受験している当時からこういう傾向はあったような気がしますが、近年はそれがより見える形で顕在化してきたんでしょうね。
余談ですが、私達が予備校生の時代、牧野先生は超がつくほどスターだったなぁと思い出しました。確か河合塾の入塾式でもお話されて、スパイスが効いたことおっしゃっていた記憶も。

私が印象に残ったところを抜粋しました。(赤字部分)これで概要は掴めると思います。
直接、サイトにアクセスしていただければ全文読めます。それがベストです!
是非、教育関係者には読んでもらいたい!(こういった内容のことも含め、教育をする、学生を教えるということについて試行錯誤し、考え抜いてほしいなと思います。生意気な言い方になってしまってすみません。)
以下抜粋。
『(中略)多くのテスト結果が、従来の「偏差値」方法では、前提とされている「一つ山」にならず、二つコブのラクダ状になってしまうことである。(中略)そして、この二つのコブの間の分離が大きすぎるために、このコブの間の移動はほとんど不可能になっているように見える。(中略)こうした二つコブの存在は、ほぼ100パーセントの人々が事実として認めた。その二つコブの差が出現する理由もほぼ一致しているのである。その答えは「日本語力」の差にある、つまり「言語論理力」にあるというものである。私自身は、学生の成績は、その学生の家庭的な「文化的蓄積力」と一定の相関関係があるのではないかと推測していた。(中略)最近では次のように嘆く講師を何人も発見することとなる。「Aクラスは、二極に分解した。小さな〈上位層グループ〉と大きな〈下位集団〉に。上のグループはやっている授業が簡単すぎて物足りない。下の方は授業にからっきし着いて来れない」。これを図式化すれば、二つコブのそれぞれのコブの中に、また二つコブがあることになる。(中略)上ゴブ中の下コブの存在は(中略)実はもう一つ重大事を孕む。それは受験生自身の側の問題である一例をあげると、このコブの中にいる者たちの多くが、小・中学校で、あの「訓練型、徹底練習型」の「教育」方式、いわゆる「k式方法」の塾に通い、その勉強をやって来たという事実が多くあるのである。つまり、塾のAクラス(「偏差値」<62.5⇔57.5>)は二つの集団によって形成されていて、その問題がそれなりに理解されている者から完璧な者までの集団>と、<訓練によって、内容的には、あまり分かっていないが、外形上は、解けたように見える者の集団>という二つによって、出来ているのである。この二つのタイプの異なる集団は、外形上は、「偏差値」<62.5⇔57.5>が同値であって似ているように見えながら、その内容が、まったく逆向きである。(中略)この両者を、一つの部屋に入れて同じ何かを考えさせたり、「教育」したり「おしえようとすること」自体、まったく無意味であるどころが、大変な結果を引き起こすことになるであろう。まったく「学び方」が違い、「積極性」「主体」の方向が違っているのである。
(中略)こうした後に何がやって来るか。Aクラスの実際の授業での塾生の理解状況や成績の内実の二極化が進行する。そして、このままでは、授業が成立しないだけでなく、受験生の上コブの下の受験生たちは、講師にどんなに言われても自分の方法を変えず、成績はびくとも動かない。しかし、この人はクラス分けテストを通した<見ばえ>は、「上クラス」に居ることもあって、それで成績が上がらないこと、授業が分からないことから来る心理的なイラダチは、極めて大きい。
 今社会に起こっていること、若者の中に起こっていることは、こうしたことと深く関係するように思われてならない。』

このれぽーとから6年経過した今、これがどのように変化したのか(変わっていないのか)も知りたいと思ってしまいます。変わっていないとしたら、更にこの状況が進行していたとしたら・・・・

こういった角度からの分析は非常に貴重だと思い、教育に関係する方々には是非読んでいただき、考えていただきたいとも思います。(くどいようですが)

本質を見つめているというか、事象をより深くまで掘って見つめているというか、ただただすごい!

文教研れぽーとは、他にも「私の受験時代」とか私にとっては面白い記事があり、たまに読み直したりしています。

2012年7月7日土曜日

子育て関連サイト・本紹介

社会に出てみて、常に思うことは「心」とか「メンタル面」とかっていうのが非常に重要になってくるなと。
いろいろな力を持っていても、メンタル面で弱いと結局その能力を活かせずに終わってしまうと思います。やはり「心」なんです!「メンタル」なんです!

それで、「心」の面のことをなんだかんだ考えていると、結局やはり行き着くところは親の子育てなんじゃないかなと思ってしまいます(言い換えると、親がどう子どもに接してきたかということ、例えばどういう状況のときにどういう接し方をしたかということ)。この時期に子供の核が形成されていくわけで、本当に重要だと思うわけです。特に自己肯定感を育む教育は重要だと思います。

当たり前のことですが、世のお父さん・お母さんには、やはり心身ともに健康であること、そのように健やかに子供が育っていくような子育てをしてほしい、そして子供の可能性を広げるような子育てをしてほしいと願っているわけです。そうすれば、家族みんながハッピーですからね。
これが正解だっていう育て方なんてないので難しいんですけど、ただ常に子どもと向き合いながら親の方も内省を重ねていくことは大事だと思います。そして子どもの成長とともに、親も今まで見えていなかったことが見えることで成長していく・・・そういうのが素敵かなって思います。

そんな中、私は、自分の子供時代を振り返っていて、子育てにおける父親の役割って何だろうって思い、なんかいい知見が載っているサイトはないかなって探していたところ、このサイトにめぐり合いました。
です。私自身は非常に納得できるし、なるほどと思う内容でした。
「心」を育てるということを大事だと思っている方、子育てについていろいろ考えている・悩んでいる・どうしたらいいかなと思っている方は一度ご覧になったらいかがでしょうか?

他にも、こんな素敵な子育ての本もあります。

こんな本もあります。

他にも素晴らしい子育て関連のサイトや本はあると思いますが、参考まで。

2012年7月5日木曜日

高校⑤名門高校関連記事パート1

サンデー毎日(2012325日)の記事の中で、「結束力上位10校」ということで秋田高、仙台二高、修猷館高、富山中部高、富山高、高岡高、濟々黌高、熊本高、高崎高、前橋高の10校が紹介されていました。どの高校も名門中の名門ですよね。こういった高校名を見ると、しびれますね。私個人的には、どの高校も好きですね。
自分の母校がこういったところに紹介されると、ちょっと誇らしい気持ちになるんじゃないでしょうか。
特に印象的だったのが、秋田高校についての記事で、「頭のいいお兄さんたちが通うんだと幼いころからあこがれていただけに、母校への誇りは人一倍強い。そうした意識を持つ卒業生が多いから同窓会のネットワークは自然と広がり、団結力が強まる。私の初代後援会長は秋田高OBでした」
こう語るのは1873(明治6)年に洋学校として創設された県立秋田高OBの金田勝年衆院議員(62)。というコメントが載っていました。これって私も同じ感覚だったのでよくわかるんですが、でもこういうことをストレートに表現できてしまう金田さんはすごいと思ったことも含めて印象的な記載でした。


余談ですが、
私は小さい頃から、「あの大学は旧制〇〇だよ」とか、高校ならば例えば「札幌南高校は旧制札幌一中で〇〇とか、水戸一はすごいとか・・・・」とか、高校野球の季節になれば、公立の名門進学校である秋田高・高崎高・前橋高・米子東・鳥取西・東筑などが出場すると、その高校の話題ばかりになったり、そういった全国の大学や特に全国の公立の名門高の話を親から聞かされていたこともあり、小・中学生の頃からそういった話に異様に興味を持っていました。(ちなみに「スローカーブを、もう一球」【山際淳司著 角川文庫】は高崎高校の野球部を扱った作品で面白かったな。)2005年に『名門高校人脈』(光文社新書)という本が出たときに、自分と同じように興味のある人がいる、価値を感じている人がいるということに純粋な驚きを感じましたし、その本が結構反響があったことも驚きでした。(ただサンデー毎日の東大合格者の号が異様に売れるという話も聞いていましたので、やはり、東大に入るくらいのレベルの高校のOBで伝統校ともなれば自分の母校の事が好きなんだなとは思ってはいましたが。まぁ、それと私が大切だと思っていたことが間違いでなかったということも知れてよかったですね。)しかも『名門高校人脈』は本当に内容的によくできており、特に、「ハビトュス」を中心軸においてそれぞれの高校OB人脈やそれぞれの高校の継承してきた文化資本を大事にして書かれている印象を受け(連綿と続いてきた伝統を背景とした文化的な側面を頭に置きながら書いているだろうなと感じる内容も多く、またそれ故にそれぞれの高校の骨格・外形がイメージできるというかそんな感じ)、非常に共感を覚える内容でした。さらに「現時点では進学実績がよくても、まだ著名なOBが少ないところや、予備校的と感じる高校はあえて掲載しませんでした」と著者が語っているのを読んで、まさにそれそれを思ってしまいました。どうしてこういうスタンスで書けるのかなってずっと思っていたら、この本の著者のお父様は大阪府の屈指の名門の北野高校のご出身と知り、なるほどなって思った次第です。

さて本題へ。
サンデー毎日の記事を引用しつつ、私の個人的な趣味でちょっとだけ情報を付け加えて面白くしようかとか思ったり、いろいろ考えたんですが、それよりは、今回は、自宅に保管しているバックナンバーから名門高校関連の記事が掲載されていた雑誌を紹介していこうと思っています。他にもそういった記事があれば、発見次第紹介していきます。
(本当は、雑誌の記事を丸ごとスキャンして載せたかったんですが、何かと問題があるようなので、内容のほんの入り口だけ紹介したいと思います。)

※ちなみに本として名門高校関連で出版されているものは
『名門高校人脈』(光文社新書20058月 著者:鈴木隆祐)
47都道府県の名門高校』(平凡社新書20083月 著者:八幡和郎 CDI
『別冊宝島ニッポンの名門高校102』(宝島社 20084月)
『仰天 有名人の出身校』(一水社 20086月)←名門高校だけではない
『東大合格高校盛衰史』(光文社新書 20099月 著者:小林哲夫)
などがあります。たまに目を通して、フムフムと言ってみています。



ではバックナンバーの紹介 今回は5冊紹介しましょう。
まず1冊目
AERA2005117日号)】
 ●記事タイトル:大学より高校力
   いまだから輝く人脈力
   大学以上に人の結びつきの地下水脈のように流れているのは出身高校だ。
   同じ地方で過ごした3年間の県立高校時代は財産だ。
   6年間の中高一貫校の人脈も家族のように強い。

  紹介されている高校
:筑波大学付属(東京都・国立)、開成(東京都・私立)、松本深志(長野県・
 県立)、岡山朝日(岡山県・県立)、灘(兵庫県・私立)
 
 ●記事タイトル:中高一貫VS県立高の人脈力比較
   全国有力高182校アンケート調査 
   アンケートで大学より出身高校が大事と考える学校が多いことがわかった。そこで
   中高一貫と県立高の人脈力を比べてみた。
   全国の高校に行った「人脈力」についてのアンケート結果の「高校名と大学名のど
   ちらが価値あると考えていますか」との質問に対しては、「高校」と答えた高校が
84校と、「大学」と回答した高校(17校)を大きく上回った。

  紹介されている高校
   :渋谷教育学園幕張(千葉県・私立)、日比谷(東京都・都立)札幌南(北海道・道立)
   他にも、大阪教育大学附属天王寺、西南学院、都立戸山、県立東葛飾、青雲の人脈
力についてのコメントもあり。さらに、北海道から沖縄の国立・私立・公立の名門
高校182校の「人脈力」についてのアンケート結果を高校ごと掲載。     
   
   (感想)久々に見ましたが、今見ても、記事の内容に引き込まれてしまうくらい私の好きなテーマを扱ってくれています。内容は、ものすごく的を得ているし共感できる内容でした。感動ものの記事です。素晴らしい!!



続いて2冊目
【ヨミウリウィークリー(200519日→16日)】
 ●記事タイトル:本邦初公開!社長の出身高校640人調査 東日本編
   企業内にも成果主義が急速に浸透するにつれて、大学の学閥も崩壊する一方だ。多
   くのビジネスマンが、よるべない企業社会を生き抜くことを強いられているなか、
   頼りになるのは、同じ高校の出身者であるという声もよく聞く。そこで本誌は独自
   に、有名企業のトップの出身高校を徹底調査した。その結果、見えてきたのは。実
   業界で本当に強い高校である。

  紹介されている高校
   :北海道から三重県までの高校(名門進学校がほとんどを占めている)
    特に、大きく扱われている高校は、開成(東京都・私立)、慶應義塾(神奈川  県・私立)、日比谷(東京都・都立)



3冊目
【週間朝日(20061020日号)】
 ●記事タイトル:日本の社長500人 出身高校ランキング
         出世する高校、稼いでいる大学
   いまや新卒社員の採用で「学歴不問」を掲げる会社は珍しくない。ところが、日本
   を代表する500社の社長の出身校を調べてみると、「名門」といわれる高校や大学
   が上位に名を連ねていることがわかった。学歴社会の弊害か、それとも能力本位
   で選んだ結果なのか?

  紹介されている高校
   :北から札幌南(北海道・道立)、仙台第一・仙台第二(宮城県・県立)、前橋(群馬県・県立)、浦和(埼玉県・県立)、千葉(千葉県・県立)、日比谷(東京都・都立)、新宿(東京都・都立)、小石川(東京都・都立)、西(東京都・都立)、武蔵丘(東京都・都立)、墨田川(東京都・都立)、立川(東京都・都立)、大森(東京都・都立)上野(東京都・都立)、富士(東京都・都立)麻布(東京都・私立)、芝(東京都・私立)、開成(東京都・私立)、法政第一(東京都・私立)、筑波大学附属(東京都・国立)、横浜翠嵐(神奈川県・県立)、横須賀(神奈川県・県立)、慶應義塾(神奈川県・私立)、栄光学園(神奈川県・私立)、甲府南(山梨県・県立)、富山中部(富山県・県立)、若狭(福井県・県立)、静岡(静岡県・県立)、浜松北(静岡県・県立)、旭丘(愛知県・県立)、明和(愛知県・県立)、岡崎(愛知県・県立)、東海(愛知県・私立)、津(三重県・県立)、伊勢(三重県・県立)、彦根東(滋賀県・県立)、八尾(大阪府・府立)、天王寺(大阪府・府立)、市岡(大阪府・府立)、灘(兵庫県・私立)、甲陽学院(兵庫県・私立)、六甲(兵庫県・私立)、高松(香川県・県立)、下関西・防府(山口県・県立)、修猷館(福岡県・県立)、東筑(福岡県・県立)、熊本(熊本県・県立)中津南・佐伯鶴城(大分県・県立)、ラ・サール(鹿児島県・私立)



4冊目
【読売ウィークリー(2007318日号)】
 ●記事タイトル:息子・娘を入れたい学校
  (以前ブログで紹介しましたのでリンクはりました)




5冊目
【読売ウィークリー(20071021日号)】
 ●記事タイトル:ビジネス界高校人脈
   仕事の武器として、「高校人脈」が今、注目されている。MAが本格化する今後は、いっそう重要度が増すとの声もある。ではビジネス界でパワーを持つ高校とはどこか、これからどんな高校が輝きを増すのか? 
  紹介されている高校
  :筑波大附属(東京都・国立)、日比谷(東京都・都立)、西(東京都・都立)、戸山(東京都・都立)、小石川(東京都・都立)、小山台(東京都・都立)、新宿(東京都・都立)、開成(東京都・私立)、麻布(東京都・私立)、武蔵(東京都・私立)、成蹊(東京都・私立)、早大学院(東京都・私立)、水戸第一(茨城県・県立)、前橋(群馬県・県立)、高崎(群馬県・県立)、浦和(埼玉県・県立)、慶應志木(埼玉県・私立)、市川(千葉県・私立)、横浜翠嵐(神奈川県・県立)、湘南(神奈川県・県立)、慶應(神奈川県・私立)、栄光学園(神奈川県・私立)、浅野(神奈川県・私立)、旭丘(愛知県・県立)、明和(愛知県・県立)、岡崎(愛知県・県立)、東海(愛知県・私立)、洛北(京都府・府立)、北野(大阪府・府立)、大手前(大阪府・府立)、天王寺(大阪府・府立)、神戸(兵庫県・県立)、灘(兵庫県・私立)、関西学院(兵庫県・私立)、甲南(兵庫県・私立)、甲陽学院(兵庫県・私立)、六甲(兵庫県・私立)、修猷館(福岡県・県立)、ラ・サール(鹿児島県・私立)



興味のある方は、図書館等でもバックナンバーを閲覧できると思いますので、ご覧になってみたらいかかでしょうか?

2012年7月1日日曜日

今の学生に身につけてほしいと思うもの

ちょっと長いですけど前置きから

〔今の学校・塾の指導について・・・〕
いろいろな高校を見ていると、どの学校も、進学に力を入れています。塾も、より上の学校に合格させるために受験テクニックを伝授したり受験指導に力を入れています。昔の学校は、それぞれの学校のレベルに応じて指導は様々だった気がしますが、今日のように、大学進学が当然という時代になってくると、やはりどの学校も必然的に進学指導に力をいれていくのはある意味当然なのかもしれません。
学校・塾も保護者・生徒に選ばれなければ生き残っていけない時代です。そう考えた時、今のご時勢の保護者・生徒のニーズが進学や受験指導ということを考えると、当然そうなってしまうのでしょう。

〔受験競争と学歴について・・・・・〕
しかも、下記の記載(どこかの書物に記載されていた)にあるように、こういった環境条件がどうしても受験に向かわせてしまうということはある種、仕方がないことなのかもしれないです。↓
『学歴社会は、業績(実力)主義なのか、属性(実力ではなく、本人の属性・レッテルによる評価)なのか、あるいは学校世界の業績主義が卒業後に属性主義に転換されるのか。学校は業績主義社会をつくるための社会装置である。にもかかわらず、こうした議論が出てくるのは、学歴が年齢という属性に「閉じこめられている」からである。18歳や22歳の「学歴」しか、学歴として認知されていない。~そのため、「たった一度」の学歴取得チャンスが、大きな重みをもつことになる。~学歴意識が異常に高まる理由の1つはこの年齢主義にある。この「年齢主義的学歴」が、出発点への強い「参入条件」になっている。』
※さらに受験競争が過熱する仕掛けは「日本のメリトクラシー 構造と心性」(東京大学出版会1995年 著者:竹内洋)に詳しく書かれている。(このコラムの最後にその内容の抜粋をのせます・・・注①) ※この本は1995年に出版されていますので、教育環境の置かれている状況が当時と今とで異なっているとは思いますが、それを考慮に入れても、非常に参考になると思います。
ちなみにこの本は私が大学院の勉強のときに使った専門書の1つです。(内容は機能理論・葛藤理論・解釈理論の説明、トーナメント移動や増幅効果論・冷却論のついて、選抜システムを導きの糸に受験と選抜、就職と選抜、昇進と選抜についての考察、学歴ノンエリートと冷却について、書かれています)

こういったものを見ていくと、今日まで続く受験競争も構造的な部分からもある種当然の帰結なのかもしれません。



一昔前であれば、大学・短大進学率も低く、親御さんでも大学を出ていないというのは普通でしたが、今、中学生や高校生をお子様に持つ親御さんは、マス後期(昭和51年~平成4年)の時期に大学受験された方が多いと思いますので大学・短大進学率も30%~40%くらいの時期であり、受験を身近に感じており、自分たちもリアルにイメージができる世代であり、さらにこの時期は18歳人口も増え、大学進学率も高まり、競争が激しくなってきている時期でもありますので、自分たちが経験した時代と重ねあわせて、お子さんにも当然のように頑張れとなっているではないでしょうか。しかも自分たち以上に大学進学率が上昇している今日であれば、それに拍車がかかるのは当然だと思います。さらに、可愛いわが子のことですからそれはそれは間違いなく真剣だと思います。

※「大学受験・進学60年史プロフィール -エリートからマス、ユニバーサル期への激動の軌跡-」この表を見ていただくと親御さん達が経験した時期がよくわかると思います。
区分をもう少し分かりやすく書いてあるのが(大学・短大進学率等に見る「区分」)になります。

親御さんがいい高校、いい大学に行かせたいと思うのはやはり将来を案じてのことだと思いますので、今からはちょっと就職も絡めて書いていきたいと思います。
マーチン・トロウの三段階区分でいうところのエリート期(昭和30年代後半まで)は大学というものにある一定の価値がおかれていた時代であり、大学を出たか、そうでないかで、ある種就職でも明確に差別化されていた時代であったと思います。そこからマス期に入り、大学進学率が上昇することで、今度は大卒かそうでないかで分けるのではなく、どこの大学なのかということで差別化される時代となり、就職でもより難関大学であるほど、就職には有利に働くような時代であったと思います。そして今はユニバーサル期となり、さらにみんなが大学に進学するようになり(受験形態も、一般・推薦・AO入試が混在し、入試の軽量化もすすみ)、しかも少子化や教育改革の影響もあり、大学自体のレベルの低下も叫ばれ、就職で選抜する際に、今の大学生をどう見立てていいのかわからない時代になっていると思います。確かに、今でも大学による就職格差はあるとは思いますが、現在の大学生の学力レベルが以前と比べて低下していることは周知の事実だと思いますから、たとえ有名大学だといってもそれを額面どおりに企業も受け止めないのではないでしょうか。(『入試の変化によって、大学の名前による学力判断は困難になる。この時に困るのは採用する側の会社である~市場の圧力によって、就職共通一次試験のようなものが誕生するだろう。』と入試の変化によって採用する側である会社のスタンスも変化していくだろうと指摘する声もあるんですよ、だから私一人が感じているわけじゃないんですよね、実際。)(今の大学生はダメだと言っているわけではないですよ。学力という意味において以前より低下しているということです。これは今の大学生の責任というよりは、入試形態の変化や教育改革や今という時代に責任があるのかもしれないと思いますので、今の学生さんがこれを読んでもあんまり気になさらないでくださいね。しかも、あくまで私見ですから)

だとしたときに、では何で学生を見ていくのか。簡単に言えば、今はその個人個人にどんな能力や可能性、資質があるのかで見ていくことで選抜するしかなくなっている気がします。まさしく、その人自身、その人自身の人間力といったところでしょうか。以前から企業の採用は個人を見てきたと思いますが、それ以上に入念に個人にフォーカスして見ていくのではないかと思います。(当然、どこの大学出身なのかということは重要なポイントであることは間違いないのですが、それが昔ほどのインパクトを持つかというとNOということです)

 

こういったことも考慮に入れると、今の学校や塾がやっているような、ただ単純に大学に合格させるために受験指導を頑張るというのはどうなのかなと思ってしまいます。受験指導が悪いといっているわけではありません。受験指導・勉強を教えていくということは非常に重要だと思っています。ただ、あまりにも目先の受験指導に偏りすぎていると思います。そして、誰もに対してそれを要求しているように見えてしまいます。それによって、あまりにも画一的で、単一的な価値基準で動いているような気がしてしまいます。本当に将来を見据えているのかと思ってしまうこともあります。(ちょっと大袈裟にいうと)
教育に携わる人間は顧客のニーズに応えることも大事ですが、もっと大きく大局的な見地からとらえ、教育のあるべき姿を模索していかないといけないと思っています。少なくとも、私は、今のままではいけないのではないかと思っています。教育の失敗はすぐ見えず、何十年か先になってはじめて見えるわけで・・・・。

そういった点では、今、学校が取り入れているキャリア教育というものは非常によいことだとは思います。但し、しっかりと、コンセプトを押さえて、徹底して提供しているのであればOKだと思いますが、そうでない場合は、ただやっただけになってしまう危険性はありますが。(それならば、勉強だけ力を入れた方がよっぽどいいと思いますね。)


いろいろと書きたいことを書いてきましたが、ここからが今日の本題です。

今の学生は、これから社会に出ていくわけですが、出ていく社会というのが、本当に先が見えにくい非常に厳しい環境であるわけです。私としては、だからこそ、学生に身につけほしいと思うもの(学校の教育や生活の中で身につけてほしいと思うもの)があります。それを2書きたいと思います。(勉強も大切ですが、それ以外のことです)今から書くことは、 どちらかといえば、根っこの部分の教育になりますが、まずはそれが生きていくうえでもベースになりますし、本当の意味で大切なのではないかと思っています。学校も、こういった部分にもっともっと情熱を注いでほしいと思っています。(先生・指導者が、目の前のこの生徒を一人前にするにはどうしたらいいのかということに情熱を注ぐということにも繋がるし、本当の意味で個を伸ばしていくことにもつながります)まさにやる気を引き出す指導ということになりますね。

まず1つ目は、
社会に出て成功するためにとか、もっというならば幸せに生きるためにとか、そうなるような見方・感じ方を身につけてほしいということです。
何かの壁にぶつかった時でも、その壁に対してどう感じてどう対処するか、立ち止まらず、逃げずに前に進んでいくにはやはりそうできるような見方感じ方を身に付けている必要があると思うわけです。
ではこれはどうやってするのっていうと、それは受験指導(結果ではなく、過程)の中でもできるし、スポーツ指導の中でもできるし、外部の社会体験カリキュラムでもできると思いますが、先生・指導者がそういう体験の中のいくつかの局面の中で、それぞれの生徒に何を掴んでほしいか明確に決めて生徒に関わっていくこと(まぁ、こういった体験を通じて生徒が何を掴むか、何を気づくかは生徒それぞれですが、でも大きなくくりの中で先生・指導者が「何を掴んでほしいのか」ということをイメージしていることは必要)や、こういった指導の過程の中で、生徒が壁にぶつかり、プラス~マイナスに揺れる中で、壁の乗り越え方のきっかけや、それを乗り越えるための見方・感じ方を提示していくことで、身につけさせていくことができるのではないかと思います。(仲間からのアドバイスも大きいと思いますが)
そういった体験は、その時、壁を乗り越えられたという一時のものだけじゃなく、社会に出てからも貴重な体験として生徒の心に残り、社会で何かがあったとしてもその時の体験がリファレンスになるんじゃないかと思います。

2つ目は、
自分の今までの道のりや今までの体験や経験を元に、自分を知り、自分はどういう人間であるかを理解し、将来に繋がる自己イメージや自分の活かし方のイメージを身につけてほしいということです。
まずは自分を知り、自己理解を深めることによって、自分らしさとか自分の強みとか、自分の大事にしているものとか、自分の成功パターンとか、そういったもの自覚するが第一段階になります。(気づきを与え→本人の中でそれを確定させる)それができたならば、それを活かした自分の方向性を模索したり、現実の社会の中で、自分らしさの活かす、活かし方のイメージを身につけてほしいと思います。

1つ目についても2つ目についても「やる気を引き出す」ことにも有効だと思います。
この取り組みを受けた生徒たちが何か1つでもこれから先の人生にとって意味のある気づきを得られれば、それだけで十分だと思っています。
これは生徒たちだけではなく、先生・指導者たちにとっても、こういう取り組みを通じて生徒個々のことを深くまで理解できるようになりますので、生徒指導の面、さらにいうならば生徒個々の能力を引き出す指導という面で非常に大切な知見を与えてくれると思います。

そして、こういう取り組みを受けた生徒たちの最高のストーリーは、
・自分が何をしなければいけないのか、自分にはこういう思いやこういう強みがあるんだからそれを活かしてこういうことをしたいという目的意識が生まれる(目標を持つ)、前に進もうとする姿勢が生まれる→自律的に学習できるような行動変容が起こる→いろいろな困難な状況もある中で、自分で考え何をやるかを決め、1つ1つクリアしていく→壁にぶつかっても新しく得た見方・感じ方を軸にいろいろな局面を乗り越えていく→そして自分が自覚している自分らしさや自分なりの成功パターンを信じて目標に到達する→それを今後の人生においても繰り返していく→幸せな人生・社会での成功
こうなっていくんじゃないかと思います。こうなったら本当に理想ですよね。

また、1
つ目についても、2つ目についても、そういったことを自分の言葉で明確に具体的に話せる生徒、こういうことを体験から身に付け自覚した生徒(言うなれば、体に染み込む言語化して理解腹落ちする)は、これから社会に出てからも強いし、生きていく上でも強いと思います。多分企業側から見ても輝いて見えると思いますし、明らかに他の生徒とは違って映ると思います。
あっさり書きましたが、先生・指導者の方等がこれをやろうとすると、人と真正面から向き合わなければいけません。構えも必要です。従って、非常にパワーがかかる難しいことを要求しているとは思いますが。


私も、なんだかんだで、どうやって学生を育てよう、成長させようと真剣に考えているわけで、とりとめのない文になってしまいまして、すみません。
こういったことを、いつの機会かに、いろいろな方とじっくり意見をぶつけてみたいなとも思っています。


最後に、多くのプロサッカー選手を育てた大瀧監督と教え子の対談を紹介して今回のコラムは終わりにします。(テレビを録画して、話しをしている内容を一生懸命文字に落としました!)
大瀧監督の指導スタイルは一貫してますね~。

『俺は一人も育ててねぇ』(テレビ番組)内の
大瀧雅良(清水商業サッカー部監督)×藤田俊哉(清水商業サッカー部元主将)
  ~受け継がれる清商魂~
の中で話されていたことの抜粋。
藤田「僕の高校生活って3年間ですけど、今ここで振り返っただけでも、たかが3年間だけど、その3年間ってただの3年間じゃないなっていうのは簡単に分かる。
(中略)高校の時に教えてもらったことは基本ベースになって話しが始まる。」

藤田(大瀧先生に対して)「ずっと怖い存在でいられるって、なかなかないですよね。だって根性いるでしょ。だって人間だから怒りたくもないし、(中略)いい人になりたいから。どっちかっていえばそっちに行きがちになるから、でもここで言わなきゃいけないことはあるなっていったときに、バッって言い切らなきゃって思うけど、全部が全部できるかって言われたらできないですもん。ずっとそれをやり続けるってなかなかできないよ!

大瀧イズムとは
藤田「清商に来て、全国大会で勝つ俺たちがいると思ってやっているから、俺らは勝つと思ってやってるから!なんで勝てるかとか言われても俺ら勝ちに来たんだとしか思ってないから、そのメンタリティーが違ったと思う。俺たちが一番になるっていうくらいそういう感覚で毎日やるのと、行けたらいいなとか行きたいとかは違うから。小学校から試合は勝つ、全国大会に出たら優勝する、知らないって怖い。知らないでそこを疑わずに行っちゃうってああいうのある意味、パワーを引き出す。」
大瀧「がんばる!どんなことがあってもがんばっちまう!とにかく前に行く、あのゴールを取りに行くんだ、粘り強さとかがんばりは、そうそう人に真似できないから。(テクニックの動作をしながら)これはいつでも真似できる実は。でもああいうがんばり、ゴール前の粘りはなかなか人様には真似できるものではない。
藤田「やっぱりそういうもんなんですね。
藤田「プロになって、何が大事っていう話しになるんですよ。でもね、根性っていうんですよ。古っていうのあるじゃないですか。お前根性っていうの今更って。でも俺ら最終的に何が大事って根性だよなって。だって、清水に育ってうまい選手っていっぱいいたじゃないですか。とんでもないうまい選手、僕から見てもいっぱいいたけど、ふっと振り向いたら横とか向いたら、うまい選手って結構いなくなっちゃったりしている。結構残っている人達を見ると案外一番上よりちょっと下にいる人達ばっかりいるなみたいな。どっかでもうちょいだな、もうちょいだなと思う人ばっかりいる。おもしろいね、こういうことって。(中略)俺も精神論なんて大嫌いだった。精神論よりも俺は技術・技を磨きたいってずっと言ってきたけど、年々あれって思って、あれあれっていううちに、みんなで話す時は根性だよなって。
大瀧「そういう言葉が出てくるとは思わなかったな~。」
大瀧「技術とか戦術とかっていう話は実にかっこいいんだよ。サッカーっていうのは体をぶつけ合うスポーツだから、そこに1ミリでも1センチでも相手より前に出ようというのは気持ちでしかない。」
藤田「一概に根性っていうとそれだけかもしれないけど、心を磨くっていうか、心がきちんとしてないと、ダメだなって。よくよくテクニック、テクニックっていうけど、意外に試合の中でそんなめちゃくちゃテクニックなんか使えない。本当に基本的なプレイしか意外に使えなかったりするから、基本的なプレイをどれくらい確実にできるかっていう方が俺たちには大事だったりした。」
大瀧「本当に大事なのはコントロールはボールコントロールじゃなくて、(胸をたたきながら)ここのコントロールなんだよ。このコントロールの経験のない人はやっちゃいけないんだよ。」
藤田「先生、やっぱ、僕らが集まって根性だよなっていうのは、なかなか僕らもきちんと吸収したっていうことですね!

最後に画面に向かって
藤田「根性ですよ、根性!」
                                       』

「ツッチー ノボリ 名波のサッカー王国静岡を考えよう」(テレビ番組)内の
安永聡太郎氏(元清水商業サッカー部)が大瀧監督(清水商業サッカー部監督)にインタビューしていたときの話しの内容の抜粋

大瀧「親にできないことをやらにゃあ。預かった以上は、親にできないこと、ダメなことはダメってはっきり伝えなきゃ。ダメなことをいいよ、次頑張れよって次はねぇんだぞ、俺たちの世界は勝負だから、負けてゴメンね、次もう一回やらせて下さいなんてとてもお願いにいくようなスポーツじゃない。勝つか負けるかのしのぎを削っているんだから、ここで一発きちっとした勝負が出来る子を育てたいわけ。」 

こういう一連のやり取りを聞いていると、大瀧先生の生徒に何を掴んで欲しいかというのがわかりますし、それを中心軸においてぶらさず指導している姿がはっきりと見て取れます。そしてそういう姿勢が結果的に教え子にメッセージとして体の中に染み込まれているのもわかります。


   

注①・・・・・【受験競争が過熱する仕掛けの補足】
「日本のメリトクラシー 構造と心性」(東京大学出版会1995年 著者:竹内洋)
2部経験的分析 第3章受験と選抜より

●学歴とは
『(中略)学歴の社会経済的地位達成機能が格別大きくはないという証拠を示したところで、日本人の意識の世界から学歴社会というイメージは払拭できそうにはおもえない。この点については、臨時教育審議会の学歴偏重社会をめぐる論説の揺れに端的にあらわれている。臨教審第二部会は学歴社会の検討をして、所得や採用、昇進といった職業生活にかかわる面で日本が「必ずしも学歴を偏重しているとは認められない」という結論に達した。にもかかわらず、第一次答申においては、「学歴が偏重されている社会」と学歴社会を肯定するに至った。この揺れこそ日本の学歴社会の特徴を示している。たとえ学歴の社会経済的地位達成機能は大きくなくても、学歴は人々の「まなざし」のなかで「プライド」や「貴種」として作用しているからである。つまり有名大学を卒業していることは、人々の「まなざし」のなかで、「人間としての基本的価値が高い」ことや「社会的毛なみの良いこと」、「貴種」であることを意味する。これは学歴の象徴的価値といえる。』ほかにも学歴の機能的価値も言及し受験競争過熱の構造を紹介しているが、今回は学歴の象徴的価値の記載のみにします。
学歴の象徴的価値を考えるときにイギリス社会の階級概念を合わせ鏡にした記述の中で
『(中略)むろん日本でも「かれ(彼女)は家柄がよい」ということもある。しかし「労働者階級出身だが社長になった」というような階級用語の使用頻度は少ない。われわれは少し異なったいいかたをする。「高卒だが大企業の重役になった」とか「東大をでていないのに、東大教授になった」とかのいいかたをしないだろうか。日本社会においても階級へのまなざしがないわけではないが、その視線の力は弱い。イギリス人が他者の出身階級に敏感だとするとわれわれは他者の学歴に敏感なのである。階級意識的社会というより学歴意識社会といえる。階級意識社会のイギリスが他の産業社会から較べて社会移動が少ないとは必ずしもいえないように、学歴意識社会と学歴の社会経済的地位達成効果が格段に大きくないことはなんら矛盾しない。しかも帰属的地位である出身階級とは異なって学歴は獲得的地位であるから、(獲得)競争が激しくなる。』

●大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛け ~傾斜的選抜システム~
『(中略)日本では「学力によって序列化されているのは一握りの学校にとどまらない。すべての学校が序列化されている。したがって15歳の日本人はできるだけよい学校に入学しようとする誘因にとり囲まれている。」こうしたことは高等教育についてもいえる。(中略)日本の高校や大学の総序列化は特異なものである。(中略)むろん、日本のすべての高校がこうした「輪切り」選抜体制におかれているわけではない。小学区制や総合選抜制などによって公立高等学校に学校ランクが発生しないようにしている地域もある。しかしこういう地域ではしばしば私立校が偏差値で序列化されているから公立高校も偏差値序列化に組み込まれてしまっている。また大学入試においては微細な偏差値によって大学が序列化している、したがって細かな学校ランクによる傾斜的選抜システムを日本の教育的選抜の特徴とみることができよう
こうした傾斜的選抜システム社会においては合格可能性を知るために模擬試験などが日常化し、事前選抜が制度化しているから、選抜以前にアスピレーションが冷却される。「自己排除」や「追放」などの暗黙裡の選抜や予期的クール・アウトは、階級文化によってよりも事前選抜によっておきているわけだ。
しかし、事前選抜の制度化を冷却とだけ結びつけるのは皮相的な見方である。たしかに生徒が模擬試験などによって偏差値55と知らされたとき偏差値68とされる学校への志願は諦めるだろう。しかし頑張れば偏差値60の学校に進学できるのではないか、というように却って煽られるのだ。(中略)焚きつけの作用は偏差値上位者だけにとどまらない。中位者や下位者についてもおきる。(中略)某県の輪切り選抜体制下にある中学三年生に対して「模擬試験の結果(偏差値・順位)を見たときに、どのように思いますか」という質問をし、その結果を成績別にクロスしたものである。成績がさがるほど、「競争意欲が弱まる」や「何も感じない」の割合はふえていくが、それでもいずれの成績のカテゴリーにおいても「競争意欲が強まる」という者がもっとも多いことはかわらない。受験生も偏差値をみて、冷却されるのではない。志望を縮小されるという鎮静のあとに自分なりの目標にむけて再び焚きつけられていることが確認される。構造的には、傾斜的選抜=偏差値受験社会は、諦めをもたらすのではない。諦めを迂回しながらの焚きつけのテクノロジーを潜めている。』


●大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛け ~層別競争移動~
『(中略)トーナメントからの逸脱は日本のトラッキング(高校ランクと大学ランク)が小刻み(輪切り)だということにある。他の条件が等しければ、それぞれの時点の選抜の目盛りが大きい場合よりも小さい場合のほうが次の選抜で追い越しや追い越されの逆転がおきる確立が増す。しかしいま他の条件が等しければといったように、小刻みなトラッキングがただちに敗者復活の機会を増やすわけではない。さまざまな制度的要因に支援されて小刻みな選抜という選抜様式が敗者復活の契機になる。
こうした制度的要因として最初に挙げられるのは大学入学者選考方法である。(中略)一般に日本の大学入学者選考は出身高校や高校の達成(成績)を選抜の要因に使用しない。過去の経歴や達成のシグナルによる雪だるま効果の発生はあらかじめ排除されている。日本の教育的選抜は過去の達成の御破算主義によっている。推薦入学の場合のように過去の達成を選抜に使用したとしても学校間格差を考慮する成績調整をほとんどおこなわない。高校の選抜結果は御破算なのである。こういう御破算主義的大学入学者選抜方法のなかで小刻みな選抜様式が純粋トーナメントからの逸脱をもたらすことになる
トーナメント移動を逸脱させる制度的要因の第二は、日本の場合、小刻みなトラッキングが学校間に外部化していることによる。アメリカではトラッキングは、差異的学習機会などによって初期の学力格差を拡大するとして批判されるが、日本の学校間格差は必ずしも不平等の増幅装置とはいえない。いえないどころか敗者復活の装置にもなる。トラックが学校単位になっており学校間競争(トップ校に追いつけ、三番手の高校に追い越されるな)がおこなわれているからである。学校間競争といってもあらゆる高校がトップ校を競争対象にするわけではなく、学校ランク3位の高校は学校ランク2位の高校に追いつき、学校ランク4位の高校に追い越されないようにするというような分相応競争ではあるが、それだけ学校間競争が熾烈である。こうして日本型トラッキングはラベリング効果による学習機会の不平等を抑止する。抑止する以上に日本型トラッキングはリターン・マッチを活性化する傾向がある。このことは、教育的選抜における加熱と冷却の作動に日米の差異によってみることができる。ローゼンバウムは加熱は上位トラックにおこり、冷却は下位トラックにおこるというが、日本では、学校ランクでかなり低位にある高校の冷却を例外として事情は異なっている。日本では加熱と冷却がトラック間に作動するのではなく、トラック内部に生じる。トラックが学校単位になっているから、トップの高校においても成績下位の者には押し下げ効果によって冷却が作動する。押し下げ効果とは、絶対水準で学力が高くても所属集団が学力の高い集団で相対的に下位になることによってクール・アウトされてしまうことである。逆に二番手、三番手の高校であろうとも成績上位者には押し上げ効果が生じ加熱が作動する。押し上げ効果とは絶対水準の学力でかならずしも高くなくとも所属集団内での相対的位置では高くなり、加熱効果が作動することである。所謂フロッグ・ポンド効果である。(中略)こうしたトーナメント移動からの崩れは「層別競争移動」と命名できる。ここで層別という限定詞をつけるのは、三番手の高校生が、トップ校の高校生のトップグループに追い付くことは少なく、あくまでトップ校と二番手校の間だけの競争移動だからである。しかし、二番手校と三番手校も、三番手校と四番手校も競争移動状況にあるわけだから、層別競争移動はエリート・トラックに限定されないことと、その境界は相互に入りくんでいて断層がないことにも注意したい。層別ではあるが、追い越されたり、追い越したりの可能性が開かれているわけだ。傾斜的選抜システムや層別競争移動という選抜システムの特徴こそ大衆的受験競争を過熱する背後の仕掛けである。』


「論争・東大崩壊」(中公新書ラクレ 2001年 著:竹内洋+中公新書ラクレ編集部)
メリトクラシーの大衆化を語る上の重要な、日本の入試の選抜の基準についての記載がある。それも合わせてみていただくと、さらに深く理解できると思います。以下抜粋
『(中略)一般に高校入試や大学入試では、論述式の問題より選択式の問題のほうが多い。そういう問題はある意味では、努力して知識を獲得すれば何とかなる問題である。ところが、口述試験とか論述式の試験では努力しただけではなかなかうまくいかない。要するに、言語的なセンスとか論理的な構想力といった象徴的シンボルを操る力が影響する。
たとえば、フランスのグランゼコールと呼ばれるエリート校に入るためには口述試験を通過しなければならない。この口述試験では、どういう語彙を持っているか、どのように発音をするのかも評価されるという。イギリスの大学入試での論述式の試験が多い。したがって語彙力、要するに家庭の中でどういう言葉を使っているかが影響として出やすい
それに比べると日本の入試は、一般的に言って特定の階層の文化に偏っていない。ある意味ではだれでも接近可能な知識を入試問題として出題している。業績の判断基準の中身である試験の内容自体が階層に偏ってないという意味で大衆的なのである。』