2012年6月6日水曜日

「予備校が教育を救う」・・・本の紹介

「予備校が教育を救う」(2004年文春新書)
筆者の丹羽健夫氏は、河合塾理事、進学本部長をされていた方です。2001年に退任。
実は私、以前、お会いしてお話させていただいたこともあるんですよね。

この本は予備校のお話・学校のお話・大学のお話の3部編成。
内容としては、予備校の歴史~どんなことを考えてどんなことを思い支えてきたのか、進学率上昇にともなういろいろな現実、全共闘、テキスト・テスト・クラス分け・模擬試験と情報・講師、若さのオーラといぶし銀の信頼できる授業、教材作り、コスモコース設置、三国比較での入試問題研究、カンボジア支援の話し、予備校の全国展開、本質を考える授業を取り戻せ、納得型の沈殿・・・疑問にじっくり付き合い一緒に考えとことん説明する、正しい中高一貫教育を目指そう、伝統ある人間教育第二の学力の養成、旧制高校などなど。

私は1990年、予備校がブイブイいわせていた時代に河合塾に在籍していましたが、その頃にも全共闘くずれの講師の方々が沢山いて、高校よりもアカデミックだなと感じたことを覚えています。また、勉強だけではない、何か本質的なものを身につけさせられた感じがしました。
学校にはないなにかが、河合塾にはあった、そんな感じでした。
「教育」というものを広く俯瞰して眺めた時に、教育機関としてできる事や切り口は様々であり、それを模索し、果敢に挑戦し、形にしていったのが河合塾だと思います。

この本の中で、私がそうなのかとかセクシーな言い回しだなとかと感じた文のほんの一部を抜粋しました。(あくまで独断と偏見で)
もっともっと面白いこと、素晴らしいことが書かれてありましたが、ほんの一部だけ抜粋して紹介します。
この本の持つ雰囲気を感じとっていただければなぁ、なんて思います。

以下抜粋。

●全共闘くずれの予備校講師→彼らは予備校に期待される正解の導き方、受験テクニックに関しては工夫をこらすが、その前に必ずその教科に対する自分たちの愛、思いの丈を語るのであった。そしてほとんどの講師が圧倒的な生徒の人気を勝ち得た。思うに、彼らの人気の秘密は、運動を闘った者の多くが、運動の終焉とともに「あれは若い時の思い出の一頁」と扉を閉じて、さっさと就職やら学者の道を歩みはじめたのに対して、いまだに「あれは何であったのか」と考えつづけて身動きがとれなかった。その純粋さにこそあったのだろう。それが諦観や妥協に汚濁されていない17、18歳の受験生たちの純粋さの琴線に触れて、教室で奏で合っていたということではないだろうか。ところで全共闘講師たちの面白いところは、授業の人気を鼻にかけて従来の予備校の秩序を乱したりしなかったことである。年上の人には礼儀正しかった。そしていつの間にかともからいた有能な講師を師として建て、組織に溶け込み、自然に彼ら独自の新しい秩序をつくりあげていった。

●観念ばかりが先走ったいわゆる「~のためにする」授業というものは、いつの時代も空転し、成立しないものなのだ。全共闘講師たちは、社会性というものは、ひとつのテーマを巡って人と人とがぶつかり合う中から醸し出されるものだと信じていた。大学合格という目標を共有して、講師が生徒を叱咤し、生徒がそれに応え、あるいは反発し、成功したらともに手を取り合って喜ぶ。失敗したら一緒になく。アカデミックな教育からすれば、受験という亜流でむしろ卑しい領域かもしれないけれど、本当の社会性はむしろ卑しいとされる領域における、具体的現実的な問題を共有した師弟同士の本当に関わり合いの中でこそ生まれるのではないかと考えていた。本当に生徒が求めているもの、本当に生徒にとって必要なものを、この自由な穴ぼこの中で自分も勉強しながら与えつづけよう、というのが彼らの覚悟であった。

●思うに教育の場とは、さまざなな人と人とが集まる中で、予測のしなかったさまざまなものが飛び出してくることに、場としての面白さや意味があるのだろう。(例えば、文理わけのしないクラスだとグループダイナミズムが生まれるとか)

●人気講師の共通した特徴①発生や話しぶり②それより重要な共通点とは予習に大変多くの時間を割いている、そしてその予習の仕方は、前半でシナリオを作る、そして後半でシナリオをたどりながらしきりに考えこむ。何を考えこんでいるかというと言葉探しをしているのである。授業の冒頭でテーマや問題点を明瞭に理解させるには、どの言葉、どういう表現が一番インパクトがあるだろうか。結びのキーワードはどうしたら印象的か。人気講師たちは共通して、言葉の威力、言葉の奥深さ、そして言葉の恐ろしさを知っているのだ。

●教科の本質的理解の授業が成功すればどうなるか。一旦、その教科の面白さを知り、知的好奇心を揺さぶられた生徒は、あとは放っておいても自分で走り始めるのである。

●納得型の沈殿⇔「理解型、肯定型、予定調和型」

●昨今、大学生の学力低下が問題になっている。特に東大をはじめとする難関大学の先生方の論調をお聞きすると、主要な論点は指導要領の中身の空洞化による学力低下であるが、それ以外にも本質を求める知的探究心の喪失、知的バックグラウンドの狭さ、持続力のなさ、知的攻撃力の衰退など、アチーブメントテストの成績に表象される第一の学力だけでなく、第一の学力を獲得するために支えとなる第二の学力がないことも問題となっているのである。まさに人格形成が問題になっているのだ。

●先生とは不思議なもので、教室を離れた仲間同士の場所で勢いを得ると、それが教室に反映するものらしい。予備校も同様で、人気講師の多くは、教室以外の場所を持っている。

●先生が教壇で夢中になる、我を忘れる、目を吊り上げる、生徒にとってこんな有益な授業はないだろう。

●農業人口が高度経済成長に伴い、製造業やサービス業に磁石のように吸い取られ量的にやせ細っていく。(農地を工場建築のために売ってしまうとか)これは農業のみの運命でなく、家内的自営業全体の運命でもあった。このことは数字で読めばそれだけの話であるし、言葉にすれば、産業構造の変化のひと言で片づけられてしまうのであるが、この時期に予備校が見たものは、ひとつの家庭、ひとりの人間が、高度経済成長が促した産業構造の変化によって、生きざままで変えなければならなかったという深刻な事態だったのである。継ぐべき職業を喪失してしまった子たちが、勉強が得意であろうとなかろうと長い灰色の線となって、仕方なく大学・短大に向かわざるを得なかった現実を予備校がみたのである。人間的には知的領域が得意な者、身体の運動を中心とした行動の領域が得意な者、感性の領域が得意な者、根気のいる繰り返しの作業が得意な者など、様々な人がいる。社会が求めているからといって、勉強があまり好きでない子や嫌いな子に勉強を無理強いするのははたして正常を言えるだろうか。教え方を工夫する以外に、それらの子どもたちが持っている別の能力が活きるような社会環境づくりを考えたほうがいい。

●思うに自己に目覚めた若さというものには、草花の芽がこの世の空気にはじめて触れて、ここは何処だと呟くように、ぼくは何だと問いかけるように、専門の鋳型に流れ込む前に、むさぼるように知りたいこと、感じたいことがいっぱいあるのだ。しかも、この情理についての豊穣な欲求の時間は野の草に宿った朝露が、日が高く昇る前にはあらかた消えてしまうように、20歳前後の一瞬と限られている。その一瞬に魂を揺さ振られる経験を胸に刻み込んだか否かは、その後の彼たちや彼女たちの人生を大きく変えるであろう。そして予備校が従来の仕事領域とは別の、いま世の中から強く求められている新しい領域に手を染めるとしたら、おそらく此処、つまり巣立ちの前の若者たちの魂を息づかせること、このことを措いて他にあるまい。

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